その日、いつもの着流しに編み笠という浪人姿で「ふらり」と巡回にでた長谷川へぇ蔵に、
密偵である子房の粂八が何気なく近づき、「ちと、お耳に入れたいことがございまして」と、言った。
二人は軍鶏鍋屋「五鉄」に連れ立って入り、奥の部屋に腰を下ろし、酒の膳が運ばれると、へぇ蔵は子女に、
「ちょと話がしたい。呼ぶまで誰も来ないでくれ」と言い、懐に包んであったこころづけを渡した。
「昨晩、酒をちょっとひっかけまして、いい心もちで本所の通りを歩いていましたら、その、
抜き場から立派な身なりをしたお侍様が出てくるのを見まして・・」
抜き場とは「千摺り所」の別称である。卑猥な浮世絵やら紙芝居やらが揃えてあり、湯殿もある。
独り者の同心・木村忠吾などは「はっはっ、それはなかなかに乙な・・」などと申すような場所である。
「して、その侍とは?」
「それが驚くじゃあございませんか、なんと緒何志古守様(おなにしこのかみさま)が供も付けずにお一人で・・」
「なんと!」思わずへぇ蔵も膝を乗り出した。
緒何志古守といえば大身も大身、八千石の大身旗本で将軍様の「千摺り指南役」に就いているほどの者である。
それほどの者がそのような所に一人であらわれるはずがない。
このことが公儀に知れたらどの様な処罰が下るか知れたものではないのだ。
粂八ならずとも「こいつ、妙な・・」というものである。
「それで、何気なく後をつけて見ますと、へい、その、緒何様が、なんと辻コキの真似事しているじゃありませんか!」
これにはさすがの長谷川へぇ蔵も杯を落とさんばかりの驚きようであり、「ううむ」と唸ったきり二の句が浮かばぬ。
「辻コキ」とは、夜道などで見ず知らずの歩行者にそっと近づき、むりやりにいちもつを弄り昇天に至らしめる、
極悪非道の仕業なのである。
明くる日、役宅に戻った長谷川へぇ蔵は、着替えもせぬうちに「忠吾(うさぎ)を呼べ」、と妻久栄に言いつけた。
湯を浴び、久栄の用意した着物に袖を通したへぇ蔵が部屋へ戻る途中、呼び出した忠吾と廊下で出くわした。
「長官(おかしら)っ、急用でございましょうか?」
いかにも市中巡回から「帰ってきたばかり」、といういでたちで息を切らせて駆け寄る忠吾に、「こいつめ、
いちいち言うことが芝居がかっておる」、と思いながらも「まあ、な。ともかく中へ」忠吾を部屋へ入るよう促し、
妻久栄に「しばらくは誰も通すな」と言いつけた。
「ことがこと」、である。忠吾に「他言無用」と十分に念を押した上で、昨日の粂八の話を聞かせた。
「まことにもって、はっはっ、八千石の大身旗本ともある身で、はっこれは、なんとも・・」
「そのことよ・・・」
食いつめ浪人の仕業ならいざしらず、八千石取りの大身旗本の仕業なのである。
いかに長谷川へぇ蔵といえども「うかつには手を出せぬ・・」のである。
「どうだ、ひとつ俺たちでやってのけようか。俺とお前と粂八の三人で、だ」
へぇ蔵が放蕩時代の伝法な口調で語りかける。
「わたくしめも、はっ、その、辻コキというのは、まことにもって許せぬと、前々から・・」
「決まった、な」
「なれど、どのようにして、その、緒何なにがしを?」
「わからぬか?忠吾(うさぎ)よ。ふふ、ひとつしか、あるまい」
「と、申しますと?」
「囮よ」
「それはそれは。はっはっ、この忠吾、恐れ入りましてございまする」
「お前が囮になるのだ」
「へっ?」
「お前が囮になってその緒何なにがしに、ふふふ、「襲われろ」と申すのだ。」
「げえっ」
顔面蒼白となった忠吾とへぇ蔵は、一刻ほど密談し、やがて忠吾はがっくりと
肩を落として部屋を後にした。
「まったく、うちの長官(おやじ)ときたら俺にこんな・・」
本所の蕎麦屋「ちんぽや」で粂八に酒の相手をさせながら木村忠吾がぼやいていた。
へぇ蔵と密談を交わした明くる日の夜から、忠吾と粂八は夜の通りに出ていた。
忠吾は酔ったふりをし、袴を脱ぎ捨ていちもつを振りながら通りをふらふらと歩く。
その後から粂八が、これは町人の姿で、物陰に隠れながら続く。
これで獲物の引っ掛けようというのだ。
だが、いっこうに緒何なにがしは現れず、二週間が過ぎようとしていた。
「いちもつが風邪をひき、皮から頭を出さぬ世・・」とは忠吾の弁で、この寒空の下、
下半身を露出させて町を練り歩くのはなかなかに骨が折れるものであった。
「木村さま、そろそろ出かけませんと・・」粂八が言いかけると、
「調子はどうだい?」ひょいと暖簾をくぐった長谷川へぇ蔵が二人に声を掛けた。
びっくりした木村忠吾は「おっ長官(おかしら)っ、今から、今から出かけようとしていたところでっ
いえ、その、怠けてなどは、この忠吾、決して・・」と一気にまくしたてた。
へぇ蔵は内心「こいつめ!」と思ったが、「まあよい。今日は俺も手伝おうよ」とやさしく言った。
「で、では長官(おかしら)もわたくしめと同じ格好を?」と忠吾。
「こいつめ」
今度は声に出していった。
「俺がそんな格好をするはずがなかろうよ。忠吾(うさぎ)、そんな格好、お前一人で十分よ」
普段は並みの大きさの忠吾のいちもつが、小さく小さくしぼんでいくのを粂八は見逃さなかった。
下半身を露出させながら、酔った振りをして歩く木村忠吾を「なかなか堂に入っている」と
粂八に評した長谷川へぇ蔵は、「なにか妙な」気配をいち早く感じ取り、粂八に目くばせをした。
すると、先行する木村忠吾の前に男が「ぬっ」とあらわれ「遊ばぬか?」と声を掛けた。
「はっ」と身構えようとする忠吾をものともせず、男は忠吾のいちもつに素早く手をかけ、
目にもとまらぬ早業でこれを擦り始めた。
「ぬ、これはいかぬ!」ぱっと飛び出した長谷川へぇ蔵は父、長谷川宣雄ゆずりの五寸三分の名刀(いちもつ)
に手をかけ、「火付け盗賊改め長官、長谷川へぇ蔵の出役である」と大喝した。
余人ではない。長谷川へぇ蔵の大喝である。
男も刀(いちもつ)を抜いていたが、これには一瞬萎えかけた。これを見逃すへぇ蔵ではない。
さっと間合いを詰めたへぇ蔵が男の後ろへ駆け抜けたとたん、ぐっと刀(いちもつ)に拭いをかけて
素早く鞘(皮)に収めた。
「どさっ」と崩れた男の刀(いちもつ)は完全に萎えていた。
粂八はへぇ蔵の早業に目の当たりにし、言葉もなく立ち尽くしていた。
役宅で休んでいたへぇ蔵のもとへ、緒何志古守の嫡男、緒何阿成(おなにあなる)が訪ねてきたのは、
先日の一件より三日が経過した夜であった。
八千石の大身旗本の嫡男が、供もつけずに一人で長谷川へぇ蔵を訪ねてきたのである。
阿成を部屋に通し、茶を運んできた妻久栄へ「しばらく二人に」とへぇ蔵は告げた。
すすーと久栄が障子を閉め、部屋を出て行くと、「ばっ」と緒何阿成が両の手を畳につけ、
「父はマラを切りましてございまする」両の目からは涙が溢れている。
「父は、へぇ蔵様に大変感謝して、そして、死にましてございまする」
へぇ蔵は黙って頷いている。
あの日、へぇ蔵は緒何志古守をそのまま屋敷へ帰した。
「自分で出した精は、自分で拭うがよい」と言い捨て、それ以上咎めることもせず、そのまま帰したのだ。
そして、緒何志古守はマラを切って死んだ。
八千石の大身旗本が突然マラを切ったとなると、公儀のほうでも大変な騒ぎとなった。
なお、緒何志古守の辻コキについて表沙汰にはなっていない。
これを知っているのは、へぇ蔵、忠吾、粂八、そして阿成だけなのである。
緒何阿成が家督を継いだのは次の年になってからである。その時も阿成は役宅に挨拶に来ている。
阿成が帰った後、へぇ蔵は木村忠吾を部屋へ呼び、酒の相手をさせた。
「ま、あのせがれ殿なら緒何家も安泰だろうよ」
「さようでございますか」
「ときに、忠吾(うさぎ)よ、あの一件では存分に働いてくれたな。大手柄だぞ」
「はっはっ、あのお役目、その、私以外ではあのように上手くは・・私だからこそあのように上手くことが運ん」
言いかけると忠吾に
「こいつめ!つけあがりおって!緒何志古守にむざむざといちもつを擦られていたのはどこのどいつだ?」
へぇ蔵が一喝すると忠吾はかっと顔に血をのぼらせうつむいた。
酒の膳を運んできた久栄が「どうかなさいましたか?」と声をかけると
「いやなに、忠吾(うさぎ)めに緒何阿成殿のマラの垢でも煎じて飲ましてやりたい、などとな」と言うと、
「あらいやな」と久栄も忠吾と同じようにうつむいて顔をかくした。
へぇ蔵が目線を外に移すと、すっと庭の木を掠めるように燕が低く飛んでいった。
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