07月11

レントゲンの番号

朝起きたら胸のあたりが痛かった。
息をする度に、上半身を動かす度に痛い。
「どうしたの、変な顔して」
朝ご飯を食べながら聞いてくるお母さんに説明すると、
「一応病院に行ったら?」と言われた。
「いいよ。めんどくさい」
「なんかの病気だったらイヤでしょ」
「そりゃイヤだけど、そんなに痛くないよ」
お母さんは「日曜も診療やってるところ、近くにあったかしら」
なんて電話帳をめくり始めている。
「自転車で10分以内のところにあるなら行こう」と思った。

7分で着いた。
こんなに近いのに、今まで知らなかった。
小さな診療所だ。
近くで日曜も開いているのはここしかなかった。
外は古びていたけど、中に入ると案外綺麗だった。
受付にいたおばさんに保険証を渡して、来るのは初めてだと言う。
「じゃあ、この紙の太い枠の中を書いて持って来てね。あと一応、熱も測って」
プリントを埋め、体温計を返して、待合室の空いている席に座ると、
受付の左側に廊下が伸びているのがわかる。
この奥に診察室やトイレがあるんだろう。
廊下の方にあまり人の気配はない。
大して広くない待合室の中に2ー3人、おじいちゃんおばあちゃんがいるだけだ。
これならすぐに終わりそうだ。
案の定、15分ほどで名前を呼ばれた。

僕の後には母親に連れられた同い年くらいの女の子が入ってきただけだった。
診察室に入ると、お医者さんが聴診器で呼吸の音を聞いたり、
痛むあたりをさすりながら質問をしたりして、最終的に聞かされた診断は、
「寝違えたんじゃないかな。他はどこも悪くないようだし」
そんなことだろうとは思っていたけど、それでも少し安心した。
「でも一応、レントゲン撮っとこうか。
 この部屋を出て左の部屋に入って。サワイさん、よろしく」
僕は言われた通りに隣の部屋に入った。
診察室と待合室の間の部屋で、ドアには「放射線管理区域」と書いてある。
サワイさんという看護師のおばさんが部屋に入って来た。
受付のおばさんとは違い、動きがいちいち早い。
「ハイ、じゃ、この機械の前に立って。違う、こっちにお腹向けて」
かなり強い力で肩を掴まれ、強引に体勢を変えられる。
「じゃ、上の服、脱いで。そこのカゴに入れといて」
怒っているわけではなさそうだけど、早口で次から次へと言われると焦る。
「あー、ダメ、このズボンじゃダメだよ」
今日僕が穿いてきたズボンは、裾やポケットの部分に、
金属のチャックがたくさんついたデザインのものだった。
やっぱりこういうのは都合が悪いか、

「でも、レントゲンやるとは思わなかったしなあ」
なんて考えていると、
「ハイ、ごめんねー」
「えっ」
看護師さんはいきなり僕のズボンを下ろした。
パンツも一緒にくるぶしまで落ちる。
「ちょ、ちょっと」
「ちょっとの間だからガマンしてねー」
早口で言いながら、こちらを見もしないで看護師さんは奥の部屋へ入ってドアを閉める。
思わず、周りを見回す。
この部屋と廊下の間のドアは当然だけど閉められている。
「病院だからしょうがない」
「看護師さんだから大丈夫」
と自分に言い聞かせた。
「じゃ、撮ります。動かないで。手は伸ばして、目の前の箱の上に乗せて」
ぐぅん、と唸りだした機械の音に、慌てて言われた通りに手を目の前の箱に乗せる。
薄暗い照明。
低く唸る機械。
少し涼しい部屋。
僕は落ち着かない気持ちで終了の声を待った。
しかし、声は聞こえてこない。

「あー? なに、これ」
奥の部屋から声が聞こえる。
看護師さんがドアを開けて飛び出してきた。
「そのままでちょっと待ってて」
「え、このままでですか」
「すぐに戻るから」
それだけ言うと看護師さんは廊下に通じるドアを開け放ち、診察室の方へ進んだ。
壁越しに「ええ、スイッチが。明かりがつかなくて、機械も動きません」という声が聞こえる。
看護師さんは本当にすぐに戻ってきた。
再び奥の部屋に入り、何かを触って首を傾げている。
機械の故障のようだ。
「すぐに直らないようならこの体勢はやめていていいかな、
 ズボンがダメでもパンツは穿いていいだろう」と思った時、気づいた。
廊下へのドアが、開いている。
看護師さんが開けた時に大きく動きすぎて、開きっぱなしになってしまっている。
イヤな汗が出るのを感じた。
僕は今、裸なのに。
たまらず声を上げた。
「あ、あの、すみません。ドアが開いてるんですけど」
「うん。撮れるようになったら私が閉めるから、あなたはいつでも撮れるようにしといて」
看護師さんは顔を上げもせずに早口で言う。

「そんな」
言葉が続かず、廊下の様子を伺っていると、息が止まった。
ドアの向こうに見える廊下、壁に沿って置かれた長椅子に人が来た。
僕の後に診療所に入ってきた女の子と、そのお母さんだ。
女の子が長椅子の左端、ちょうどドアの正面に座る。
距離は2mもない。
お母さんは女の子と少し話してから待合室に戻った。
知らない女の子だ。
白い襟のついた青いワンピース姿の彼女は、
包帯の巻かれた右手の小指を少し眺めてから目を上げた。
大きな目がさらに開かれるのが見えた。
僕はものすごい勢いで顔をそむけた。
僕から女の子の姿がこんなに見えるなら、僕の姿も彼女からは丸見えのはずだ。
僕は両手で股間を隠した。
彼女は僕のその動作でようやく、僕が裸でいることに気づいたらしい。
顔を赤くして下を向いた。
僕は気が気じゃなかった。
女の子の前で裸になったことなんてない。
恥ずかしくて恥ずかしくて。
でも動けなかった。
自分でドアを閉めに行くと勝手に動くなと怒られそうだし、
何より裸のままで女の子に近づいていかなきゃいけなくなる。
幸い手を動かしたのは看護師さんにはバレていない。
僕は結局、機械の前で立って待つことしかできなかった。

心臓がバクバクと鳴るのを感じながら、
何も気にしていないように振る舞いながら、
必死で女の子の方を伺う。
女の子は最初、気まずそうに視線を落としていたけれど、
次第にこちらを見てくるようになった。
ちょこんと揃えられた足や、膝の上に乗せられた両手はまったく動かない。
もちろん、その場を去る様子なんて全然ない。
何もできないまま、女の子の視線を感じるしかない時間がしばらく続いた。
(何してるんだよ、早く機械直してよ)
看護師さんはまだ奥の部屋で、今度は分厚い本を開いている。
少し目を動かして見てみると、女の子は周りを気にすることもなくなってきているようだ。
確かにさっきから、他に人が通る気配もない。
診察室の方からは、お医者さんと元気そうなおばあちゃんの声がした。
話が途切れる様子はない。
女の子はとうとう、僕に視線を固定した。
真っ直ぐに、少し顔を赤らめたまま、裸の僕を凝視している。
手が汗ばんで股間が気持ち悪いけど、絶対に離すわけにはいかない。

何分過ぎただろう。
看護師さんが久しぶりに声を出した。
「ちょっと目の前の機械の柱見てくれる?」
「な、なんですか」
「柱に、機械の番号を書いたシールがあるから、その番号を読んで」
「そんなの自分でやってよ」と思って首を動かすと、看護師さんの姿が見えない。
奥の部屋でしゃがんでいるらしい。
「こっちのシールの番号と合ってるか確認するから。書くより早いでしょ」
「は、はい」
目の前の柱のくぼんだ所にシールが貼ってあるのはすぐにわかった。
でも、上から下がっている機械の蓋のようなもので、文字が見えない。
「シールはありました、でも文字が見えません」
「消えてるの?」
「いや、蓋みたいなのが重なってて」
看護師さんは一度顔を上げたようだ。
「ああ、それなら大丈夫。持ち上げてシールを見て」
「あ、はい」
蓋に触って気づいた。
この蓋、大きい。重そうだ。
持ち上げるのに、両手を使わなければいけなさそうなほど。
(で、でも)
今、両手を使って蓋を持ち上げたら、当然股間から手が離れる。
横目を使う。
女の子は動いていない。
状況がわからないらしく、少し首を傾げている。
(蓋を持ち上げたら、見られる)
なんとか片手だけ上げて蓋に触ったけど、とても動かせそうにない。

女の子に背を向けて持ち上げるか?
ダメだ。
シールがくぼんだ所にあるせいで、ここから動くと文字が見えなくなってしまう。
「手前に持ち上げれば動くから、番号そのまま言ってくれればいいだけだから」
相変わらず人を焦らせる早口。
「早く終わらせたいでしょ。早くして!」
「は、はい!」
体が勝手に動いた。
蓋が持ち上がる。
僕の両手に支えられて。
シールの文字が、そして今まで両手で隠していたモノが露わになる。
「番号、いくつ?」
「え、えーっと…、Aのあとに横棒がついて……」
視界がぐらぐら揺れる。
頑張って文字に意識を向けようとしているけど、目が勝手に横にずれる。
見たくないのに、見てしまう。
女の子は、顔をさらに赤くしていた。
両手を口に軽く当てて、信じられないものを見るような目でこちらを見ている。
まじまじと、彼女は僕の股間を見つめている。
「横棒のあとは?」
「は、はい、えーと、ロクロクヨンゼロ、エイチ…」
「ゼロは数字のゼロ? それともアルファベットのオー?」
「た、たぶんゼロです……」
次々飛んでくる質問に答えながらも、真横が気になってしょうがない。
あの女の子に見られていると思うと、体が震える。
でも、そう思えば思うほど、文字がわからなくなる。

「あ……」
急に、か細い声が聞こえた。
女の子の声だった。
くりくりした目を今までで一番見開いて、僕の股間に釘付けになっている。
僕も視線を下ろすと、
「……あっ!」
いつの間にか、僕のは大きくなり、上を向いていた。
思わず、女の子の方を見る。
目が合った。
女の子は目を逸らした。
だけど、やっぱりチラチラと、視線を上げ始める。
(なんで、こんな時に!)
いくら思っても、上を向いたものはなかなか戻らない。
「あ、アールの、ハチナナ! で終わりです!」
「ありがとう。大丈夫みたいね。ほんとなんなのかしら」
早口で作業に戻る看護師さん。僕は大急ぎで両手を股間に戻す。
我慢できずに、とうとう僕は顔を廊下に向けてしまった。
女の子も、それに気づく。
目が再び合う。
顔をほんのり赤くしたままの女の子は、くすくす笑った。
もじもじと体を動かす僕を見たまま、女の子は微笑んだ。

そして、顔の横で人差し指を立てる。
一度斜め下に倒した人差し指を、ぴょこんと斜め上に立てた。
ぴょこぴょこ動かす。
それが何を表しているかなんて、わかり易すぎるくらいだ。
僕は目を逸らした。
ちょうどその時、女の子の名前が呼ばれた。
レントゲンはその後、すぐに撮れた。
結果は問題なし。
あの診療所には二度と行かないことに決めた。

次の日、僕は学校の廊下を歩いていて心臓が止まりそうなくらい驚いた。
僕の2つ隣のクラスの教室に、あの女の子がいたのだ。
同級生の女子と、楽しそうにおしゃべりしている。
僕が教室の入り口で間抜けに突っ立っていると、向こうもこっちに気づいた。
何も言えないで、何もできないでいる僕に、
彼女は少しだけ驚いたあと、くすくす笑った。
そして、周りの女の子に何か話し始める。
僕は自分の教室へ走り出した。
彼女たちからは悲鳴じみた声が響いた。
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