01月30

燃えた1週間と、その時の双子

某大手電機メーカーのパソコン用アプリケーションソフト開発と流通を
担当する部門を独立させた会社に勤務していた頃の話。

当時はまだWindowsという今は当たり前のパソコン用共通OSは世に出ていない。
日本では、ビジネス用の16bitパソコンが普及し始め、MS-DOSを基本OSにして、
各社が独自路線で熾烈なシェア獲得競争を繰り広げていた。
と言っても、パソコン市場ではN社が圧倒的シェアを誇り、その他のメーカーは
その牙城を切り崩すために躍起になっていた。
俺の所属する陣営は、大型コンピューターでは十分な歴史と伝統と実績を誇って
いたが、パソコン市場では弱小メーカーに過ぎず、巨大メーカー故の歩留まり
の悪さから、低価格化が進み単価の安いパソコンは、はっきり言って採算が
取れない。
それでも、当時は現在のクライアント&サーバーシステムという利用形態は
まだ標準化されておらず、大口ユーザーでは、基幹業務の中核に大型コンピュー
ターを据え、その端末がパソコンに置き換えられるていくという過渡期にあり、
大型コンピューターのシェアを守るために、パソコンのシステム開発をやめる
わけにはいかなかった。
(いわゆる、集中処理と分散処理の融合という時期である)
実際、それまでは大型コンピューターの世界では鼻くそのような存在であった
N社が、パソコン市場での成功によって、そのノウハウを導入し、大型コンピュー
ターの世界においても先行メーカーを侵食しつつあった。

パソコン市場で立ち遅れた我が陣営において、圧倒的なシェアを誇るN社に食い
込むためには、われわれの陣営のパソコン用の独自ソフトの開発とともに、豊富
に品揃えされたN社のパソコン向けのアプリケーションソフトを我が陣営のパソ
コンでも利用できるようにする必要があった。
パソコン用の高名で利用者の多いアプリケーションソフトの大半は、サード
パーティーといわれる、メ?カーから独立したソフト開発会社のものである。
最初に書いた通り、パソコンハード及びOSは、各社独自路線で設計開発していた
から、N社のパソコン用に開発されたソフトは、そのままで他メーカーのパソ
コンで動作してはくれない。
いわゆる他仕様パソコンへの「移植」という工程が必要になる。
そのためには莫大な経費が必要であり、その作業を依頼するために、どれだけの
金が高名ソフト開発会社に渡っただろうか。

弱小メーカーであるがために、頭を下げ、大金を動かしてソフトを移植して貰い、
かなり我が陣営でもソフトの品揃えが出来てきたが、N社のユーザーを我が陣営
に取り込むためには、もうひとつ越えなければいけないハードルがある。
N社のパソコンで蓄積されたされた各ユーザー固有のデータ資産を、どうやって
ユーザの負担を軽減しながら我が陣営のパソコンで活用できるようにしていくか
ということである。
今では考えられないことだが、各メーカーのパソコンで、データーを保存する
ためのハ?ドディスクやフロッピーディスクのフォーマット形式が異なるし、
各ソフト間でのデータの共用性(汎用性)も極端に低い。
勿論、ノウハウを持っていればいろいろとやり方はあるけれど、パソコンユーザー
は専門家でもパソコンオタクでもない。できるだけ簡便なデータ移行のノウハウ
を広く知らせ、N社のユーザーが、なるほどパソコンを他のメーカー製のもの
に変えても、それまでに蓄積されたデータ資産は活用できるんだという認識を
持ってもらう必要があった。

実際にユーザーと接する代理店や特約店の営業員には、知識レベルに大きく差が
ある。
そこで、各メーカー製パソコン間や各ソフト間でのデータの変換を容易にできる
ノウハウ集の必要性が高まり、某出版社の名を借りてて、そのノウハウ本を一般
市場に流通させることになった。
そこで、優秀な代理店、特約店とも、また、そふとメーカーであるサードパーティ
の連中とも強いネットワークを持っていた俺に、その本を執筆する役目が回って
来た。
個人のネットワークを使って取引先の優秀な連中を集め、実験検証を行い、
リポートを作成し、1冊の本に纏めていく。
資金は、親会社から出る。
執筆者としての俺の名前は表には出ない。
あくまでも日本のパソコン市場とユーザーを救済するためにという大義名分で
出されるニュートラルな立場で専門化が作った本という体裁がとられたため、
極秘裏に作業を進めた。
与えられた期間は4ケ月。
定時勤務時間中は通常の業務をこなし、退社後に某所に集まって作業を進めた。
私が集めたスタッフには、若い女性も2人混じっていた。
彼女たちはそう遅くまでは拘束できない。
締め切り間際の徹夜続きの甲斐あって、期限内に校了できた。

我が家は、1歳に満たない長男がいたが、子供はおろか、暫くはかあちゃんさえ
ほっぽらかしである。
この一大イベントを何とかこなし、ご褒美の幾許かの原稿料をもらい、冬の賞与
にも色を付けて貰うとともに、1週間のアメリカ旅行を研修名目で与えられた。
しかし、俺は高所恐怖症で、飛行機が苦手である。
仕事の関係上、仕方なく国内線は何度も利用しているが、いつも同席する部下
から冷やかされるほど怯えつつ搭乗していた。
ましてや、7時間?8時間もかけてアメリカまでの国際線などもってのほか。
アメリカに渡ってからも、サンフランシスコやラスベガス、ハワイなどへの移動
は、これもまた飛行機である。
でも、実験検証で俺を助けてくれたメンバーを引率する役目を仰せつかっている
以上、断るわけにもいかない。

いよいよアメリカに旅立つ前の1週間、墜落か恐怖による心臓麻痺かで死をも
覚悟した俺は、かあちゃんと寝る間もないほど交わった。
かあちゃんも開発され、淡白だったそれまでが嘘のように痴態を晒した。
精力を使い果たし、アメリカ行きの飛行機の中では熟睡できた。

無事帰国した2ケ月後、かあちゃんの妊娠がわかった。
4ケ月に入った頃、双子であることを知らされた。
そうか…異常な興奮の中、毎晩励んでも、俺の精液は相当に濃かったのだろう。

長男と年子の双子たち3人は、今、全員高校生である。

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