約束の午後7時。
15分ほど前に、彩と浩平が乗っている軽ワゴン車が、北島家の
敷地内にある駐車場に止められた。
浩平は、緊張しながら黙って彩について行き、玄関前に立った。
だいぶ広い敷地に豪壮な邸。
一度来て、周辺の景色や家の中の構造を知っていなかったら、
更に緊張も大きかったことだろう。
『いよいよか』。浩平は大きく深呼吸をした。
彩の指でチャイムが押され、応答がくる。
施錠が外される音がして、彩がドアを引いた。
「ただいまあ」
彩の後に浩平が続いて、玄関の中に入る。
母の妙子がダイニングから玄関に向かってきた。
玄関前に正座し、挨拶をしてくる。
「まあまあ、よくいらっしゃいました」
「初めまして。佐藤浩平です。
この度は、お招き頂きまして、ありがとうございます」
「こちらこそ、ご無理を言いまして申し訳ございません。
わざわざお出で下さって、嬉しく存じます。
どうぞ、お上がり下さい」
社交辞令もあるのだろうが、妙子の顔はにこやかで、子供だと見下す
ところもなく、丁寧な挨拶で歓迎の意を表わしていた。
彩は、二人のやりとりをこそばゆい思いで、脇に立って眺めていた。
三人が連れだってリビングに入って行くと、手作りの暖かな家庭料理が
きれいに盛り付けられ、テーブルに並べられていた。
「どうぞどうぞ、我が家だと思って寛いで下さい」
妙子に促されるまま、浩平と彩は、奥の椅子に並んで腰かける。
妙子は、浩平に向かい合って腰を下ろした。
「この時間だから、おなかが空いたでしょう?
たいしたものはご用意できませんでしたけれど、
遠慮なく召し上がって下さいね。
彩、浩平さんに、ご飯をよそってあげて」
彩が、ご飯をよそって浩平の前に置き、妙子の分と自分の分を
よそおうとしている間に、妙子は、赤ワインの栓を抜いた。
「浩平さん、お酒は飲めるんでしょ?」
「はあ、まあ、少しは。でも、未成年ですよ」
「ワインくらい、大丈夫でしょ」
妙子はニッコリと微笑み、浩平のグラスに注ぎ、自分のグラスにも
注ぎ入れた。彩のグラスは、ミネラルウォーターだろうか。
彩が席に着くと、妙子は、「お近づきを祝して乾杯」とグラスを二人の
方に傾けた。
浩平もグラスを上げ、「乾杯。頂戴します」と返す。
彩は、ミネラルウォーターのグラスを傾け「乾杯」と合わせる。
「さ、どうぞ、お好きなものから、遠慮なく召し上がってください」
彩が、「浩平さん、どれにします?」と聞きながら、小皿に取り分けて
くれていた。
『浩ちゃん』じゃなくて、『浩平さん』という呼び方と敬語に戻って
いるところに、彩の構えが見て取れた。
食事をしながら、妙子からは「△□大なんですってね」。
「経済学部とおっしゃったかしら」。「御両親はご健在なんですか」。
「お仕事は?」。「御兄弟は?」などと、質問をされた。
妙子は、詰問調にならないように気を配り、優しく笑みを浮かべ
ながら、さりげなく、浩平の身の上を探っているようである。
彩からあまり体は強くはないようだと聞いていたし、かなり細身の
浩平の体型も気になった妙子は、浩平の食事の様子にも注意を
払っていた。
やはり、浩平は若者らしくなく、脂っこいものを避け、淡白な料理を
中心に彩に取り分けてもらっている。「もっと少なくていいよ」と、
分量を加減もしている。遠慮しているわけではなさそうだ。
消化器系が丈夫ではないのだろうと察しがつく。
彩に「おかわり」を勧められ、ご飯は二膳平らげた浩平だったが、
妙子から勧められたワインの「おかわり」は辞退した。
浩平とその家族や生い立ちについて、妙子の質問に浩平が応じる
形で自己紹介をしながら、あらかた食事も終え、食後のデザートに
アイスクリームが出された頃に、妙子は核心の質問に入っていった。
「浩平さん。おばさん、不思議なんだけど、晴香ちゃんの告白には、
進学でこちらを離れるからなかなか会えなくなるし、遠距離恋愛を
するよりも、こちらでいい人を見つけた方がいいって、断ったんで
しょう?
でも、彩が告白しても、あなたの状況は同じよね。
親のひいき目で見たって、晴香ちゃんの方が綺麗だし、同じ状況
なのに、なぜ、彩の方は受け入れてくれたの?」
浩平は、やはり、そのことかと思い、心を落ち付かせながら応えた。
「僕に好意を持ってくれた二人のことを、僕自身の口からあれこれ
言うのは、すごく気恥ずかしいのですけれど、なぜだか事実そう
いう状況になったものですから、ありのまま、感じたままをお話し
ます。
晴香さんが、僕に対して抱いていた感情は、『憧れ』のようなもの
ではなかったのかなと思えるんです」
妙子は、口を挟まずに、頷きながら先を促し、浩平を見つめている。
彩は、緊張しながら無言で浩平の横顔を見つめていた。
「僕たちの年代というのは、男も女の子も、テレビで活躍する
アイドルや、スポーツ選手、あるいは周囲にカッコいい男の子や
好みの女の子がいれば、何かしらファンになったり、憧れます。
晴香さんが僕に向けた視線も、同じじゃないかなと。
僕は、自分がカッコいい男だとは思えませんが、晴香さんは、他の
男子とはちょっと違う、いかにも虚弱なこの容姿や体型に興味を
持ってしまった。
僕自身は、それらの全てがコンプレックスでしかないのですけれど、
そういうところに興味を持ち、なぜかそこに憧れてしまうというような
勘違いもあるのでしょう。
僕が、晴香さんから感じた印象というのは、そういうものでした。
どちらにしても、もうすぐここを出ていかなければいけない。
それならば、なるべく傷つかないように、そのことを気付かせて
あげた方が良いと判断したんです。
晴香さんも、1週間前のあの時点では、僕との交際を望んでいた
わけではなかったでしょう。
事実、僕が『高校生活最後の思い出のひとつとして割り切って』と、
言った時、晴香さんは、『遠距離はやっぱり辛い。好きな人は側に
いてほしい』と、あっさりと、実にさばさばした様子で了解してくれ
ました。
既にその時、晴香さんは、本物の恋愛を探して歩き始めていたように
僕には感じられました」
ここまで話して、ひと息をついた。
妙子は、「なるほど」と言ってうなずき、次を促した。
「それは、おばさんのおっしゃる通り、あれだけきれいな子です。
在学中に告白をされていれば、何も考えずに、嬉しくて、喜んで
お付き合いしていたでしょう。
でも、彼女はそうはしなかった。
晴香さんが僕のことを本気で恋愛対象として見ていたのなら、
告白もせずに、3年間、じっと片想いのままで過ごせるかどうか・・・。
本気で相手が好きになってしまえば、どちらに転ぼうとも、性急に
結果を求めようと行動するんじゃないかなと思えるんです。
だから、その感じとったままに、僕も晴香さんに返してあげることが
できた。
そういうことだと思います」
妙子の様子を窺いながら話を進めていく。
妙子は頷くのみである。
「僕も恋愛経験がありませんでしたから、憧れと恋する感情という
ものの違いは分かりませんでしたが、彩さんを好きになって、
はっきりとその違いを自覚しました。
ちょうど卒業を迎え、あと半月で自分がこちらを離れるという現実。
晴香さんから告白を受けた時は、決定的な障害と思えたことが、
彩さんから受けた告白の時には、どうにか出来ると思えました」
いよいよ、妙子の質問への核心に入っていく。
「彩さんからは、確かに恋愛の対象として僕のことを好きでいてくれて
いるという強い思いが、ストレートに伝わって来ました。
その時に、はっきりと自覚しました。
僕も彩さんのことが好きだったんだと。これが恋なんだと。
1週間前に、一目惚れのように彩さんを好きになっていたのに、
晴香さんの付き添いとして現れた彩さんを好きになってはいけない
という無意識の抑制、晴香さんへの遠慮があって、無理に胸に
しまいこんでしまっていたのかも知れません。
晴香さんへの遠慮という意味では、彩さんも同じでしょう。
晴香さんと僕との関係がはっきり結着したことで、彩さんは、自分の
感情を抑える必要がなくなった。
彩さんから告白されたことで、僕も晴香さんに遠慮する必要が、
自分の感情を抑える必要がなくなりました。
晴香さんは3年間、彩さんと僕とを結び付けるために彩さんに、
僕という存在を観察させてくれていたとも言えるのかなと・・・。
結果論と言われればその通りですけれど、まさに、男女の関係という
のはそういうものなのかなと、未熟ながらに考えさせられました。
彩さんに告白されて、彩さんと二人きりで話をしてみて、まるで、
お互いの感情が響きあうような、一瞬で共鳴しあうような・・・。
不思議な感覚でした」
妙子は、ここまでの浩平の言動に、ただただ驚かされていた。
挙措動作、礼儀、立ち居振る舞い、言葉遣い。ものごとの捉え方。
どれもが、高校を出たばかりの18歳の少年のものとは思えない。
何か、質問されることを予め想定して、模範解答のようなシナリオが
用意され、彼はそれを演じているのではないかとさえ錯覚した。
浩平は、口調を強めた。
「晴香さんのことも僕は好きです。
でもそれは、同学年の異性の友人として、また、自分の恋人の
親友として好きだということです。
彩さんへの僕の感情は、それとは全く違うものです。
そこには、『自分はもうすぐここからいなくなるんだから』などと
いう抑制やブレーキ。理性は、全く役に立ちませんでした」
浩平は、普段ならとても恥ずかしくて言えないようなことでも、
この、彩の母・妙子の前ではよどみなく口にしていた。
全てを正直に言わせてしまう、そういう威厳と度量を妙子は併せ
持っていた。
「ただ、ひとつだけ。晴香さんと彩さんの仲を、僕のわがままな、
勝手な振る舞いで壊してしまうことだけはできません。
ですから、最初に無理やりに自分の感情抑え込み、そのことを
彩さんに確認しました。
すると、彩さんは既に晴香さんに相談していて、晴香さんも
応援してくれているということでしたので、僕の心は、そこで
決まりました。
『僕は、彩さんが好きだ。彩さんを恋人として、絶対に手放しは
しない』と」
浩平は、言うべきことは言ったと、彩の意思を確認するように、
彼女の方を振り返って、『これで、いいんだよね』と、眼で合図を送り、
ゆっくりと妙子に向き直った。
「いろいろな意味で、晴香さんには感謝しています。
彩さんには、時間的にぎりぎりのところで、僕に告白をしてくれて、
僕の本心に気づかせてくれたことに感謝しています。
昨日の、あの時しか、僕が彩さんを恋人として認識できるタイミング
はなかったように思います。
これが、僕の正直な気持ちです」
彩は、浩平の話を聞きながら、はっきりと母に言いきってくれたことを
嬉しく思いながら、
『なぜ浩ちゃんは、こんなに深いことまで考えて行動できるんだろう。
もしかしたら、真知子先生の言うとおり、とんでもない人に恋をして
しまったのかも知れない。私と釣り合うんだろうか』
と、少しだけ不安を感じた。しかし、そういう浩平を好きになった以上、
『もう、絶対に離れたくない』という思いを強くした。
妙子は、浩平の目に、口に、引き込まれてしまっていた。
そして、思わず唸った。
「すごいわね・・・。
本当に彩と同じ歳なの?18歳?
疑ってしまうほど物事を冷静に見ているわね。
それも、自分が当事者の恋愛について、ここまで・・・。
普通は、恋心に浮かれて、我を忘れちゃうものよ。
ハア・・・。 真知子先生が惚れこむのも分かるわ。
彩から、真知子先生が言っていたという話を聞かされたときは、
彩が勝手に話を誇張しているのかとも思ったけど、
違ったみたいねぇ・・・。
ただ、ひとつだけ。
晴香ちゃんのあなたへの思いは本物だったと、おばさんは思って
いるわよ。
あなたの言うように、晴香ちゃんの心の中で、本当に吹っ切れて、
過去形になっていて欲しいものだと願うけれど・・・。
そして、彩?」
「はい」
「これはねぇ、浩平さんが東京に行っちゃったら、向こうの女の子が
ほっとかないわよ。
こっちにいて、いつも浩平さんの側にいられないお前より、
いつでも浩平さんの近くにいられる女の子の方が有利に
決まっているもの」
「おかあさん!それを言われれも、私にはどうしようもないでしょ!?
それは私も分かっていたし、浩ちゃんとも話しました。
浩ちゃんは、『俺を信じろ』って言ってくれたし、
絶対に、私を裏切らないからって言ってくれています」
「おや、普段は『浩ちゃん』って呼んでたのかい?」
「あ・・・」
「いいんだよ。本音で話そうね。
いいかい? その浩ちゃんが」
「お母さんは、『浩ちゃん』って呼ばないで!」
彩は、自分としても一番気がかりで、おそれているところを突かれて、
むくれてしまった。
「わかったわよ。それじゃ、その浩平君がね・・・。
彼は、あまり体は丈夫じゃないって言っていたでしょ!?
風邪で寝込んだり、何か病気になった時に、浩平君に好意を持って
いる女の子が彼の部屋に駆けつけて、親身に介抱してくれたり
したら、いくら彼がお前との約束を守ろうとしてくれたって、やっぱり
情が移っちゃうだろ?
これだけの男だもの、好きになる女は出てくるだろうし、
彼女がいるって彼が宣言しても、それが遠距離恋愛だと知ったら、
入り込む隙はあると思うわよ。
浩平君だって、自分が辛い時、苦しい時に、本気で助けてくれた
女の人を無下に扱うこともできないだろうし。
それでも、お前は、浩平君の気持ちを引きとめておく自信はある
のかい?」
「自信なんかない!
だったら、私は、浩ちゃんについて行く。
東京に行っちゃう時に、私も一緒に行く。
進学なんかしない。この家から出て、東京で働く。
そうすれば、他の女の人にとられたりはしない!
他の・・ウッ・・・」
彩は、とうとう、泣き出してしまった。
妙子の表情に、おこっている風はなく、『困ったわね』という、
母が娘を見る慈愛に満ちていた。
浩平は、彩の肩を抱き、しゃくりあげて下を向いている彩の顔を
覗き込むようにして、諭すように言った。
「彩? お母さんは、まだ俺達に交際するなと言っているわけじゃ
ないだろ?
お母さんは、俺達の覚悟がどれほどのものかを試そうとしているん
だと思うよ。
俺達のおかれている状況は、確かにお母さんの言われている通り
かも知れない。
それは、彩と何度も話してきたよな!?
彩が働いて、俺と一緒に暮らして、俺がのうのうと学生なんかして
いたら、それじゃまるっきり、俺は彩の『ひも』じゃないか。
そんな二人の関係になり下がるわけにはいかないだろ?」
「だっ・・グスッ。・・て」
「それに、彩が進学しないのは、俺も困る。
栄養士になって、体力のない俺をサポートしてくれよ。な!?
状況がどうであれ、お互いに好きになっちゃったんだもの、
それは、しょうがない。
でも、親は親。お互いに、家族は家族なんだから。
お互いの家族にすら歓迎されないような関係なんて、俺は嫌だ。
俺は、だいじょうぶ!
絶対に、彩と別れたりはしない。
別れることなんか考えられない。
俺に何かあったら、彩に真っ先に連絡するから。
その時は、彩が都合のつく限り、俺のところへ飛んで来い。
そして、俺を支えてくれ。な!? 彩・・・」
「私はそうしたい。けど・・・」
彩は、子供のようにしゃくりあげながら、上目遣いで妙子を睨んだ。
浩平は、彩の肩を軽く叩いて、居ずまいを正し、妙子に向きなおった。
「おばさん、済みません・・・。
彩は・・・ア、いや、彩さんは、これまでは、お母さんの言うことに
逆らったり、反抗したりすることがない、素直でまじめなお嬢さん
だったのではないですか?」
「そうね。その通りよ。
この子はね、反抗期なんかあったのかしらというほど、親に逆らうと
いうことがなくて、よく言い付けは守ってくれたし、ここ何年も、私から
叱られたことはなかったんじゃないかしら。
今日、初めて自分を曲げずに、捨て身になって逆らって来たわね。
浩平君、『彩』って呼んでいるなら、私に遠慮しないで、そのまま
呼んでもらって構わないわよ。普段着の言葉で話してね」
「はい。そうさせて頂きます。そういう彩を、変えてしまったというか・・・。
俺も、最初に言葉を交わした時の印象とは変わったなと思っています。
昨日・・・・、まだ昨日なんですね。
お付き合いを始めて、次第に彩は、彼女の全てを俺に預けてくれた
かと思えるほど、俺の言うことは素直に聞き、甘えてくれるようになり
ました。
彩が、たった2日間で、俺に全てを任せようとしてくれているのは、
偏に俺がもう数日過ぎれば、彩の傍から離れてしまうという、その
不安から逃れたいからでしょう。
でも、俺がこちらを離れている間に、彩を失うことになるかも知れない
という不安は、俺も同じなんです。
彩にとっても俺にとっても、二人の関係がまだまだ不安定だという
のは、おばさんの言うとおりです。
俺自身、まだ何も世間を知らない子供です。
これから先に何が起き、それをどうしていくのか。全てが未知数です。
この2日間、彩と、ただ二人だけの世界に入り込んで楽しい時間を
過ごしている間は、他には何もいらないように思ってしまいますが、
現実には、まだ誰にも認めてもらっていない関係です。
この先の現実を見ようとすれば、お互いにどうなっていくのかという
怯えは常にあります。
絶対的な経験が不足しています。
俺は、さっき彩が言ったとおり『俺を信じろ』としか言ってあげられ
ません。
そのことで、彩は少しは安心できるかも知れませんが、『信じること』
が、現実的には何の保証にもならないこともまた、彩はよく分って
いると思います。
だからこそ、二人のことを、おばさんに認めてもらいたいんです。
勝手なお願いですが、どうか、彩との交際を認めて下さい。
二人を信じて見守って下さい。
それさえ叶うなら、彩の不安の大部分は解消されると思います。
もちろん、お前の何を信じろというのかと言われればそれまでです。
そして、俺自身が未熟だから、おばさんにすがるような形でお願い
するというのは、男として情けないとは思います。
責任をすり替えているようで、卑怯だとも思います。
それを承知で、できるならば俺自身が後戻りできないように、
将来の結婚を前提に、お付き合いをお許し頂けないでしょうか。
まだ、たった2日間の交際。お母さんには初対面。
非常識なことは承知の上で・・・。
それが彩にとっても大きな安心になるだろうと思うんです」
『結婚』という言葉を浩平の口から聞いて、それまで俯いていた彩が、
顔を浩平に向け、『はっ』としたような表情で、半ば口を開いたまま
固まっていた。
妙子も、目を見開いて驚いている。
「勿論、これから大学に進学しようかという、経済的な基盤を何も
持たない、学費も親に頼っているような分際で、無責任に『婚約』
などとは言いません。
そこまで厚かましくお願いをするつもりはありません。
両家の両親が、将来は俺達二人の結婚を望んでいるという状況を
頂ければ、それで構いません。
お母さんが、そのことを受け入れてくれるのであれば、明日にでも、
彩を俺の両親に紹介したいと思います。
そして、彩のお父さんが近々お時間を取っていただけるのなら、
再度、ご挨拶に来させて頂きたいと思います。
これが、俺が今、彩にしてあげられる精一杯のことです」
浩平は、立ちあがって、深々と頭を下げた。
「どうか、お願いします」
彩は、浩平と妙子を交互に、不安げに見つめていたが、浩平に少し
遅れて慌てて立ち上がり、同じように頭を下げた。
妙子は、暫く呆然と二人を見ていたが、優しく言葉をかけた。
「分かったわ。二人とも、頭を上げて。
座ってちょうだい」
二人は、頭を上げて、妙子の顔色をうかがいながら、座りなおした。
「おばさんね、いろいろな意味でびっくりしちゃった。
私はね、最初の浩平君の『正直な気持ち』というのを聞いた時に、
もう、二人の交際は認めてあげようと思っていたのよ。
というより、昨日、彩から浩平君のことと、彩との経緯を聞いた時点で
これは願ってもない男が、彩を射止めてくれたんじゃないかと思って
いたの。
今日来て貰ったのは、それを確認するため。
いきなり、近いうちに家に来るように言われて、彩が夢中になって
いる彼氏は、どういう態度をとるのかなとも思ったしね。
そしたら、それを彩から聞いたその日に訪ねて来てくれる。
それだけで合格よ。
いいわ。交際、認めてあげるから、簡単に別れるんじゃないわよ」
二人は安堵した。声が弾む。
「ありがとうございます」。「ありがとう」
「彩はね、浩平君も感じていると思うけど、本当に『おくて』でね。
高校生までは、親として余計な心配もしなくていいし、いい子
なんだけど、これから自分の世界が広がって行く時期に差し掛かって
当然、恋愛もしていくでしょうよ。その時に、あまりにも、そういう世界
を知らないでいたから、簡単に、ろくでもない男に引っ掛かって、
泣くような思いをするんじゃないかって。
それが心配だったの。
それも経験。大人になる階段を昇っていくプロセスだし、それで女は
強くなっていくというところもあるんだけど、やはり親としては、
そのときは泣くことになっても、取り返しのつかないような事態だけは
避けさせなきゃいけない。
彩に免疫がつくまでは、本人が嫌がっても干渉せざるを得ないし、
傷が浅いうちに別れさせるということが必要な場合もあるのよね。
その彩がねえ・・・。
自分の意思を曲げずに、浩平君との仲を引き裂こうものなら、
本当に駆け落ちでもしかねないような勢いなんだもの・・・。
女はね、男で変わるのよ。
逆もしかりだけど」
妙子は、彩に視線を向けた。
「浩平君に東京で言い寄って来る女がいたらって言うのは、彩、
あなたの本心を確かめたかったからよ。
私の本音も含まれてはいるけど。
あなたは取り乱しちゃったけど、それを浩平君の方がうまくフォロー
してくれたわね」
浩平に向き直る。
「だけど、まさか、今日『結婚』だの『婚約』だのっていう言葉が
出てくるとは、予想していなかったな」
「すみません・・・」
「いいのいいの。
最初から浮かれた調子で『結婚』なんて言葉を軽薄に持ち出して
くる男なら、恋に熱を上げて、周りや後先が見えなくなっちゃってる
だけだから、場合によっちゃひっぱたいて、叩き出してやるけどね。
あなたの場合は、彩を落ち着かせよう、彩に安心を与えてやりたい
という、心から娘を思ってくれて出てきた言葉だと分かるから、
親としては、聞いていてとても心地よかったわ。
それとも、二人の間でそういうことまで話していたの?」
「いえ、まだそこまでは・・・、正直、考えていませんでした」
ちらっと、彩を見る。
「それ以外のところは?ここで、私とのやり取りの中で考えたこと?」
「ある程度は。
自分たちの状況を考えれば、どういうことを指摘されるかは予想
できましたから。
結論は出ませんでしたが、それなりに考えてはいました。
考えている時に、彩には、『こわい顔』と言われましたけど」
「あっ、あのとき・・・だ」
「そうか・・・。おばさんの目論見なんか、お見通しだったわけか・・・。
緊張して、喉が渇いたんじゃない? 彩、紅茶でもお出ししたら?」
「はい。でも、浩ちゃんはコーヒーが好きなのよね」
「それなら、コーヒーメーカーがあるでしょ?
彩は紅茶ばかりだったから、使ったことがなかったっけ?」
「ウーン・・・。やってみる」。彩のまぶたは、まだ腫れぼったい。
「あっ、俺が淹れさせてもらいます」
「じゃあ、教えて。一緒に淹れよ」
妙子は、一緒にコーヒーを淹れている二人を微笑ましく眺めながら、
考えていた。
『良かったね、彩。初恋で浩平君のような男に出会えて。
何よりも、晴香ちゃんに感謝だわね。
彼なら将来、彩を嫁がせるのは望むところだけど。
さて、これから、どうしてあげればいいかしら・・・』
「おまたせ。って、ほとんど浩ちゃんがやってくれちゃったけど」
「昨日は、彩にも聞いたんだけど、二人はどこまで行ってるのかな?
昨日の夜にキスまでで、1日しか経っていないんだから、
変わってないか」
「いや、まあ、その・・・」
浩平が大人も驚くほどの思考や行動をするとはいえ、そこはやはり
まだまだ子供で、根が正直な少年。
ましてや、彩に劣らず、恋愛に関しては『おくて』だった浩平は、
しどろもどろになってしまった。
彩も、赤くなって俯いてしまった。
「あらあ・・・。なんだ、もう彩を抱いちゃった?」
「いえ、そこまでは・・・」
まさか、娘さんをを裸にして、恥ずかしいところを舐めまわしました。
などと言えるはずもなく、青ざめた。
彩は自室での生々しい情景を思い出して、真っ赤になっている。
「ふーん。そこまでは・・・か。
まあ、いいんだけどね。高校を卒業すれば社会人として立派に
働く人も多いわけだし、そういう意味ではもう立派な大人。
惚れあった二人が体を求めるのも自然なことだから。
ただ、順番が逆にならないように、きちんと避妊はしなさいね。
ましてや、まだ二人とも学生なんだから」
浩平は、恐縮し、「はい。わかりました」と、殊勝な顔で応えた。
「彩も、お願いね。妊娠して困るのは、あなたなんだから」
彩は、消え入りそうな声で小さく「はい」と、返事をした。
「それで浩平君、せっかくだから、今夜はうちに泊っていらっしゃいよ。
おばさんも、もうちょっと、お話ししたいし。
あれよ、浩平君たちを困らせるような話はもうしないから。
お互いに肩の力を抜いて・・・。
そのね、二人の関係を両家が公認しているという後ろ盾が欲しいん
でしょ?
浩平君のご両親にもご相談しなきゃいけないことだけど、北島家の
スタンスは、はっきりさせておいた方が、ね。
うちは娘のことだから、佐藤家よりも比重が大きいと思うし・・・ね?」
「そうよ。浩ちゃん、泊って行って!?」
「ありがとうございます。
でも、着替えも寝まきも用意してきていないですし・・・。
それに、そう言って頂けることは、本当にありがたいですけれど、
おじさんもいらっしゃらないのに、いいんですかね?」
「うちの人のことなら、事後報告でも、私から話をしておけば、まず
大丈夫よ。
普段なかなか仕事で娘たちを構ってやれない引け目があるから、
彩にも、お姉ちゃんにも甘い甘い。
お願いされたことは、何でも聞いてやっちゃうんだから。
それにね、私はうちの会社の採用も担当していて、これまで何百人
もの人を見て来ているのよ。
だから、私の人物評価にはうちの人も一目おいているの。
なにも問題ないわ。
下着とか寝まきはね、結構我が家は、仕事上のお付き合いで
訪問される方も多くて、お客さんが酔っ払っちゃたりすると、
そのまま泊って行かれるから、いくつかのサイズを常に用意して
あるの。何でもよければ、それを使ってね」
採用面接で何百人もの人物を見てきて、その評価は、社長である
北島家の主にも一目置かれている彩のお母さん・・・か。
これまでの会話で、自分はどう見られ、どういう評価を下されたの
だろう。
浩平は『ブル』っと、身震いする思いであった。
いずれにしても、そこまで彩のお母さんに勧められては、浩平にも
断る理由は見当たらない。
「分かりました。それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きます」
「やったー!!」
彩は、能天気に喜んでいる。
「家に連絡しておきたいので、お電話をお借りします」
「お家にお電話するなら、明日は土曜日だし、浩平君のご両親が
空いていらっしゃるお時間、お聞きしておいてもらえる?
できれば午後に」
「え、どうしてですか?」
「北島家のスタンスが決まったら、早めに浩平君のご両親にもお会い
しておきたいから」
「おばさんが・・・ですか?」
「そうよ。彩と一緒に」
彩は、いきなりの展開に、あっけにとられたように妙子の方を見ている。
「はあ・・・分かりました」
これで、浩平は自宅に電話するにも緊張で、手に汗を握るような
状況になった。
「あっ、母さん? 浩平だけど。
今、メモに書いておいた北島さんのお宅にお邪魔しているんだけど、
今晩ね、このまま泊て頂くことになったんで、心配しなくていいよ。
うん。
えっ、そうか・・・。そうだよ。
ああ、そうか。うん、そう。それが北島さん。そうだね。
それと、明日の午後、父さんは家にいるかな?
だから、その北島さんを紹介したいんで。
・・・。
そう、大丈夫ね。いや、そうだとは思うけど。
何時頃がいい?
3時? うん、分かった。じゃあ、宜しく」
「どうだった?」 彩の方が先に聞いてきた。
「うん。大丈夫だよ」と、彩に一言だけ返事をし、妙子に向って言った。
「3時頃がいいそうです」
「ありがとう。じゃあ、3時に予定しておきましょうね」
改めて、彩に向って話しだす。
「何かねお袋から、今日、女の子のお友達でも来て、
一緒にお昼を食べたのかって言われちゃった」
「・・・どして?」
「お昼御飯をつくったようだけど、あんなに綺麗に片づいているのは、
女の子が料理をしたとしか思えないって。
友達と簡単な料理をつくって、みんなで食べるなんてのはよくあった
けど、いつも散らかし放題だったからね。
で、それが、今日お邪魔してる北島さんていうお宅の子かいって」
「あらぁ・・・。それで、何て?」
「『彼女か』って言うから、そうだって言っておいたけど・・・。
俺が女の子を自分の家に連れて行くなんて初めてだからね。
母さんも驚いてた」
「そうなんだ・・・。エヘヘ」
彩は、浩平の母が、浩平の彼女として彩の存在を知ってくれたことが
単純に嬉しかった。
妙子が聞きとがめた。
「なんだい?彩。浩平君の家で、勝手にお宅の食材使って料理して、
お昼を食べて来ちゃったの?
お母さん、夕飯に使うものが足りなくて、困っちゃっただろうに」
「そっか・・・そこまで考えなかった。ごめんなさい」
「いや、いつものことだから大丈夫だよ。
そうだ、おばさん。母が、お家の方に宜しくお願いしますと
お伝え下さいということでした」
「分かりました。しっかりと預からせて頂きます。
でも、そういうことなら、話は早いわね」
「ええ、まあ、そうですね・・・」
「彩、お風呂入れといで。
お母さんは、洗い物しちゃうから。
浩平君は、テレビでも観て寛いでいてね」
彩は浴槽を洗って、湯のスイッチを入れ、妙子と一緒に洗い物を
済ませ、浩平が土産に持ってきたメロンを切り分けたものをテーブル
に運んできた。
浩平は、二人が要領よく立ち回っている姿を見ながら、母子二人で
北島の家を守り、平穏に仲良く生活してきた中に、いきなり自分が
入り込んで来てしまった。
穏やかに澄んだ水面に、いきなり大きな波紋を立ててしまったような
ものだな。
この北島家にとって、自分はこれからどういうポジションを取って行く
ことになるんだろう。俺が割って入ってもいいものなのだろうか。
などと、考えていた。
電話が鳴った。妙子が受話器を取りに行く。
「浩ちゃんが買ったメロン、大きいから1回じゃ食べきれないよ。
半分を3人分に切り分けてもこの大きさだもの」
「冷蔵庫に入れといても、おじさんが帰って来るまではもたないかな?」
「半分に切っちゃたからね。明後日の夜までは難しいんじゃない?
残りは、明日の朝ということで」
浩平も彩も、思わぬ急展開に驚きながら、難関を乗り切れたことに
安堵していたが、妙子は二人にとって、さらなる驚きを提案してくる。
次の体験談を読む