上司に寝取られた
「おう、塩原君、ちょっといいかな」
久しぶりにかけられる声。塩原健太は振り返った。
「越久村部長、お久しぶりです」
やってきたのは長身の中年男だ。
社内でもやり手と評判の越久村竜治、前営業1部の部長であり現在は特別事業部という社長つながりの部門の長を務めている。
今でこそ健太は企画開発部に席を置いているものの、一時期は越久村の下で営業にいたこともあり、二人は顔なじみである。
たまたま用事があって営業部に顔を出した健太を越久村が見つけたのだろう。
健太はにこやかに越久村に会釈した。
「ちょっと話があるんだ。いいかな?」
「あ、はい。何でしょう」
健太は越久村に連れられて休憩室へ向かった。
「えっ?望美を復帰させてくれですって?」
健太は驚いた。望美とは健太の妻であり、結婚一年になる最愛の人だ。
もともとは会社の秘書課に勤務していた彼女を、健太がアタックして射止めたのだ。
清楚で美しい望美は、何人かの男に声をかけられたらしいが、健太の人柄に惚れてくれ、二人はめでたくゴールインしたと言うわけだ。
その後専業主婦になると言うことで会社を退職したが、ずいぶんと惜しまれたものだった。「ああ、生嶋君なら適任なんだよ」
越久村がタバコをふかす。
ヘビースモーカーの越久村は、部長室でも常にタバコをふかしているらしい。
生嶋と言うのは望美の旧姓だ。
「ああ、すまんすまん。今は塩原君だったな。何とか会社に復帰してもらえないかな」
「どうして望美なんですか?」
健太は缶コーヒーを口にする。
せっかく専業主婦として家庭にいてくれることになったのに、職場に戻っては欲しくない。
「実は今度特別事業部で新規プロジェクトが決まってな。いろいろと雑用が増えたんだ。そこで事務処理など雑務を手がける人を用意していいってことになってね。いろいろ考えたんだが塩原君の奥さん、望美君なら適任だと思うんだよ。彼女は以前秘書課にいて会社のこともわかっている。新人を教育している暇などないからな」
「でも、それなら秘書課から誰かを・・・」
「それは無理だ」
健太の言葉をぴしゃりとさえぎる越久村。
「今時期は秘書課も手一杯だ。今年は新人を一人しか入れてないしな」
越久村のタバコの煙が健太の喉を刺激する。
「ゲホッ、ゴホッ」
「お、タバコは苦手だったな。すまんすまん」
そういいながらも越久村はタバコを消しはしない。
「とにかく打診してみてくれないか? 君にも悪い話じゃないだろう。マンションのローンだってバカにはならないはずだ」
「ハア・・・」
痛いところを突かれあいまいに返事する健太。
それを見た越久村は仕事の内容や条件を一通り伝えると、にやりと笑って休憩室をあとにした。
「越久村部長の手伝い?」
「ああ、どうしてもって泣きつかれちゃってさ・・・もちろん望美がいやなら断るよ」
健太はとりあえず越久村の申し出を望美に伝えた。
きっと断るだろうと思っていたのだ。
望美が断ったのなら健太としても越久村に言いやすい。
「うーん・・・セクハラ部長かぁ・・・」
そうだ。それも健太の不安の一つである。
越久村は女子社員の一部からセクハラ部長と言うあだ名を付けられていると言うのだ。
どこまでホントかわからないし、越久村をやっかむ連中によるものと言う話もあるのだが、やっぱり気になることは気になるのだ。
「でも、越久村部長ってまだ部長だったんだ。仕事できる人って聞いていたからとっくに常務あたりになっていると思ってたわ」
「ああ、何でも常務昇進を蹴って特別事業部に移ったらしいよ。あそこは社長直属の部門だし、業績も上げているから、他の役員たちも越久村部長にあんまり頭が上がらないらしい」
特別事業部のことは健太もよく知らない。
ただ、今度の新規プロジェクトの噂は企画開発部にも入ってきていて、相当大きな動きになるような話らしかった。
「そうなんだ。それでお手伝いの期間はどれぐらいなの?」
「とりあえず半年って言うことだった。半年後に望めば更新と言うことになるらしい」
「やってもいいかな」
「ええっ?」
望美の言葉に健太は驚いた。てっきり断るとばかり思っていたのだ。
「い、いいのかい?」
「事務処理的なことならできると思うし、今のうちにお金を貯めておいても悪くないって思うわ。半年したらやめればいいんだし、少しでも健太さんの負担を軽くしてあげたいの」
にこやかな笑顔で健太に微笑む望美。
二十五歳という若さが美しさに花を添えている。
「望美・・・でもなぁ・・・」
「くすっ、心配しなくても大丈夫よ。セクハラ部長なんていわれてても、そう変なことはしないと思うわ」
くすくすと笑っている望美。健太は望美の笑顔が大好きだった。
望美の復帰の話は越久村の手でとんとん拍子に進められ、数日後には出社の運びとなる。
当面はパート扱いだが、状況によっては正社員への復帰もありうるという話しで、給料もそれなりのものになるということだった。
住んでいるマンションのローンも結構大変なこともあり、望美は少しでも健太の負担を軽くできると喜んでいた。
セクハラ部長などと言う噂のある越久村の手伝いなどと言う仕事を引き受けたのも、専業主婦として健太に負担ばかりかけるのは申し訳ないという思いからだったのだ。
当の健太はそれを負担だなどとはこれっぽっちも思ってはいなかったが。
「それじゃ行ってくるよ。望美も今日から出社だね」
「ええ、気をつけてね、健太さん」
玄関先でお別れのキスをする望美。
結婚して一年になるというのに、望美はお別れのキスを忘れない。
健太を愛しているのだ。いつも送り出すときはしばしの別れに切なくなる。
だからこうしてキスをして送り出すのだ。名残惜しそうな表情で健太が玄関を出て行く。
送り出した望美はエプロンをはずし、出社の支度を始めるのだった。
いつもの白い下着の上にブラウスを着、ナチュラルブラウンのパンストに紺のタイトスカ
ートと上着を組み合わせる。
まるでリクルートスーツのような感じだが、どうせ会社では制服を着るのだろうから気にしない。
鏡の中に映った望美は、まるで新人社員のころに戻ったような感じがした。
メイクを終えた望美は玄関の鍵をかけて家をでる。
久しぶりの朝の外出は、望美の気分を浮き立たせた。
会社までは電車で20分ほどだ。
実は復帰が決まって知ったのだが、望美の勤める先は健太のいる都心の本社社屋ではなく、ちょっと離れた新社屋だったのだ。
そこに越久村をはじめ、新規プロジェクトに携わる人員が詰めることになるのだという。
健太と一緒に仕事ができると喜んでいたのだがそうは行かないらしい。
新しいところでの復帰は多少不安だったものの、決まったからには仕方がないし、家に近い分遅く出ることができて家事には好都合だ。
早く帰れるし健太にも迷惑をかけずにすむだろう。
望美は意気揚々と新社屋に入っていった。
「おはようございます。うっ、ゲホッ」
越久村のいる部屋に入った途端、もうもうたるタバコの煙にめまいがする望美。
部屋の中がかすむほどの白煙が充満しているのだ。
ヘビースモーカーの越久村が朝からタバコをふかしているのだろう。
「ゲホッ、ゴホッ、お、越久村部長・・・」
咳き込みながら越久村のところへいく望美。
とてもじゃないがタバコの嫌いな望美には耐えられるものではない。
「ああ、おはよう、塩原君」
タバコをふかしながら机から顔を上げる越久村。
早くから書類と格闘しているのだろう。
「お、おはようございます。あ、あの・・・」
「君の席はそこだ。今日からよろしく頼むよ」
「えっ?」
望美は驚いた。てっきり別の部屋での仕事になると思っていたのだ。
まさか一緒の部屋でなんて・・・
望美はそう思ったが、今さら別の部屋でなんて言えるはずもない。
「あ、あの」
せめてこのタバコの煙を何とかして欲しいと思い、望美は越久村に声をかける。
「何をしている? もうすぐ始業時間だぞ。席についてくれないか」
「あ・・・は、はい」
言葉をさえぎられてしまい、望美はやむを得ず席に着く。
事務用品などは新しいものがそろえられており、内線電話も設置されていた。
「あ、あの・・・部長。制服に着替えたいのですけど・・・」
「ん?ああ、言ってなかったかな? 君には秘書的な役割をしてもらいたいので制服はなしだ。スーツで仕事をしてもらいたい」
「ええっ?」
望美はまた驚いた。てっきり制服で事務処理をするものだとばかり思い込んでいたのだ。
秘書課にいたとはいえ、秘書的役割につくなど思っても見なかったのである。
「これを頼む」
席を立って望美のところにやってくる越久村。
今まで自分が目を通していた書類を望美の机に置く。
「新規プロジェクトの見積もりだ。検算して問題なければ戻してくれ」
「あ、はい」
越久村の咥えタバコに辟易しながらも、望美は仕事を始めるのだった。
「ただいまー」
「お帰りなさい・・・」
仕事を終えて帰宅した健太をエプロン姿の望美が出迎える。
だが、その表情はすごくさえなく、憂鬱そうだったことに健太は驚いた。
「どうだった、初日だから何かトラぶったのか?」
カバンを手渡し靴を脱ぎながらも、健太は最愛の妻の心配をする。
「えっ?う、うん・・・その・・・ね・・・」
言葉を濁す望美に健太は何かいやなものを感じる。
「どうしたんだい?」
玄関先だが、望美の両肩をつかんで自分の方に向けさせた。
その望美の髪から強烈なタバコのにおいが流れてくる。
「えっ?これは?」
思わず望美の髪のにおいを確かめる健太。
間違いなくそれはタバコの煙のにおいだった。
「あ・・・やっぱりわかる? タバコのにおい。そうなの・・・部長が一日中ふかしているの。もう息もできないぐらいだったの・・・」
望美がタバコが嫌いなことは健太も知っている。
自分自身ヘビースモーカーだった父の影響でタバコが大嫌いな健太は、女性がタバコを吸うことにも抵抗があるのだったが、幸い望美もタバコが嫌いと知って大いに喜んだものである。
「越久村部長はヘビースモーカーで有名だからな。でもそんなにすごいのかい?」
てっきり別の部屋で仕事をしていると思っている健太は、まさか一緒の部屋で煙まみれになっているとは思いもしない。
「すごいなんてものじゃないわ。もう部屋が真っ白で目も痛くなるぐらいなの。正直つらいわ・・・それに・・・」
それに?望美は言おうかどうしようかと迷ってしまった。
それは越久村のセクハラだった。
越久村のセクハラ部長のあだ名は噂だけのものではなかったのだった。
望美が資料を探すなどで立ち上がったりすると、いつの間にか望美のそばにやってきてお尻をタッチして行くのだ。
望美がいやな顔をして部長とたしなめると、すまんすまんといって笑うだけ。
ただ、露骨に触ってくるのではなく、あくまでタッチ程度なので、我慢しようと思えばできないことも無い。
せっかくこの不況下に仕事に就いたのだし、健太の負担を減らしたいと思っているのだから、すぐに仕事をやめようとは思わない。
だったら、健太にはよけいな心配をかけないほうがいいのではないだろうか・・・
セクハラされているなんて言ったら、きっと健太は心配する。
下手したらそれが元で越久村との間に溝ができ、仕事がやりづらくなるかもしれない。
なんと言っても相手は特別事業部の部長なのだ。
ここは私が我慢すればいいことだわと望美はそう思ったのだった。
「ううん、なんでもないわ。初日だからちょっと疲れちゃったのよ。それよりもお風呂わいているから入っちゃってね」
カバンを持って健太を促す望美。
「うん、わかった。どうだい、望美も一緒に入らないか?」
ふわりと背中から抱きしめられる望美。望美はとても幸せな気持ちに包まれる。
「もう、そんなこと言って。私は食事の支度をしなくちゃならないの」
やんわりと断る望美。
「そうか・・・じゃ、残念だけど一人で入るよ」
「あ・・・」
部屋に着替えに入ってしまう健太。望美はちょっと寂しくなる。
形では断ったものの、そんなのは後でいいからと言われれば、一緒に入ってもいいなと思
っていたのだ。
あっさりとあきらめてしまった健太に、望美はちょっと落胆した。
******
望美が仕事に就き始めて一週間、十日と経つにつれ、仕事にも慣れやりがいも感じ始めると同時に、仕事場の環境にも慣れ始めていることに望美は気がついていなかった。
そして、越久村の仕事振りにだんだんと感心するようにもなっていたのである。
越久村はまさにできる男といった仕事振りだった。
部下を能率よく使いこなし、取引先との商談はうまくまとめ、新規プロジェクトの規格案にも目を通す。
まさに八面六臂の活躍で業績を上げているのだ。
望美はいつしか越久村の仕事振りを惚れ惚れと眺めていたりするようになっていた。
また、あれほどいやだったタバコの煙も、一日中一緒の部屋で吸っていると、特に気にならなくもなってくる。
お尻へのタッチも日常的に行われてしまうと、単なる日常の一コマですむようになっていた。
タバコとセクハラに対する嫌悪感はじょじょになくなってきていることに、望美はまったく気がついていないのだった。
「それでね、私が見てもこれはどうかなって思っていたんだけど、部長ったらピシャッて言ってのけるのよ。富田林課長ったら目を白黒させてたわ」
「ふーん・・・」
面白くなさそうに望美の話を聞いている健太。
このところ食事のときに部長の話を聞かされることがあるのだ。
先日までタバコを吸うからいやだって言っていたのに、このところは部長はすごいって言
ってくる。
自分の妻が他の男を褒めるのを聞かされて面白いわけがない。
だから健太は不機嫌だったのだ。
「ね、健太さんもそう思うでしょ? 越久村部長ってすごいわよねぇ」
「そりゃ仕事はできるとは思うけど・・・人間的にはどうなのかなぁ」
ついつい否定的な発言をしてしまう健太。
それはたぶんに嫉妬だとは思っているが、面白くないのは事実なのだ。
「あら、人間的にだってそう悪い人じゃないわ。部下の面倒見だっていい人なのよ。健太さんだって以前部下だったときにお世話になったんでしょ?」
「そりゃそうだけど・・・望美に他の男を褒めてもらいたくないよ」
口を尖らせて小さく言う健太。
それを聞いて一瞬きょとんとした望美だったが、次の瞬間にくすくすと笑い出す。
「くすくす・・・いやだ、健太さんたらやきもち妬いてたの?大丈夫よ。越久村部長のことなんかなんとも思ってないんだから」
そうしてすっと立ち上がると、望美は健太の耳元でささやきかける。
「私が愛しているのはあなただけ。愛する旦那様だけよ」
「望美」
すっと突き出された唇を受け止めてキスをする健太。
望美の愛をしっかりと受け止めはしたものの、タバコのにおいがうっすらと感じるのが気になった。
「おはようございます」
翌朝望美はいつもより遅れて出社した。
夕べは健太と熱い夜を過ごしてしまい、つい寝過ごしてしまったのだ。
遅刻とは程遠い時間ではあるものの、あわてて出て行った健太には申し訳ないことをしたなと思う。
「おはよう。今日の下着はなに色かな?」
すでに机についていた越久村が顔も上げずにさらっと言う。
それがあまりにもさらりとしていたため、望美はまったくいやらしい質問と感じることなく、かえっていつものお尻タッチと変わらない軽いセクハラだと思ってしまう。
「もう部長。いきなり朝からなんですか? いつも通り白ですよ」
望美もあっさりと答える。
こういうのは恥ずかしがったりすると逆効果で、かえって相手を喜ばせてしまうのだ。
あっさりと答えてしまえば相手もそれ以上には言ってこないもの。
望美はそう思っていた。
だが、望美があっさり答えたことに、越久村は心の中でほくそえむ。
「望美君、すまないが今日は残業してもらうから」
この十日ほどのうちに、いつの間にか越久村は望美のことを望美君と呼ぶようになっていた。
「えっ? 残業ですか?」
机について仕事を始めた望美は思わず聞き返す。
昨日は言われてなかったので、残業があるなんて思ってもいなかったのだ。
「突然ですまないがね、接待があるんでそれに付き合ってもらうよ。君は俺の秘書役なんだから」
「でも部長、いきなり言われましても・・・」
困るわと望美は思う。
健太にも何も言ってないから、きっと夕食などで困ることになると思うのだ。
「今朝決まったことなんでね、すまない。何か都合悪かったかな?仕事なんだから我慢して欲しい」
「都合は大丈夫なんですが健太さんに何も言ってこなかったので」
「塩原君のことなら心配いらんだろう。彼だって子供じゃないんだから。お昼にでも電話で知らせてやればいいさ」
「はい、そうします」
仕方ないと思い、望美はため息をついた。
『そうなの・・・いきなりなものだから・・・』
お昼休みに携帯にかかってきた電話は望美からのものだった。
「ふう・・・わかったよ。夜は外食で済ませるよ」
健太は思わずため息をついてしまう。
決して望美が悪いわけじゃないのだが、なんとなく怒りを覚えてしまうのだ。
『ごめんなさい。今度から部長によく確認するようにするわ。残業があるときは前もってわかるようにするわね』
「仕方ないよ。仕事だから仕方ない」
それはなかば自分に向けた言葉だ。仕事についている以上こういうことは仕方ない。
だからこそ健太は望美に専業主婦でいて欲しかったのだ。
「あんまり遅くならないようにね」
『ええ、それはもう。愛しているわ健太さん』
「ボクもだよ、望美」
そう言って切れた電話を健太はしばらく眺めていた。
「さて、行くぞ。望美君」
席を立つ越久村。望みは驚いた。まだ夕方の四時である。
六時半の接待にはまだ時間があるはずではないか。
「寄る所があるからね。すぐに支度をしなさい」
「は、はい」
望美ははじかれたように席を立ち、越久村の後に付き従った。
望美が連れて行かれたのは一軒のブティックだった。
「部長、ここは?」
望美には何がなんだかわからない。
なぜ部長はブティックなどに来たのだろう。
「ここは俺の知り合いがやっているお店でね、さあ、入って」
ドアを開け望美を促す越久村。仕方なく望美はお店に入っていった。
「これはいらっしゃいませ。こんばんは、越久村様」
ブティックの店長と思しき女性がやってくる。
さすがにブティックの店長なだけあって、ブランド物のスーツを優雅に着こなしているが、内面から何か滲み出てくるような雰囲気を漂わせていて、望美は少し気圧された。
「すまないね。これから接待があるんで、彼女に合う服を用意してやってくれないか?」
「ええっ?」
思わず望美は声を上げてしまう。
まさか自分の服を用意するためにここへ来たなどとは思ってもいなかったのだ。
「かしこまりました。なかなかお美しいお方ですね。すぐにぴったりなものを用意させていただきますわ」
そう言って店長は望美の服を見繕い始める。
望美はただそれをあっけに取られて見ているだけだった。
「部長・・・私・・・困ります」
「いいんだ。これも仕事のうちだから。制服のような物だと思えばいい」
「せ、制服ですか・・・」
「そうだ。ほら、呼んでいるぞ。行ってきなさい」
越久村が店長のほうを指し示す。
「は、はい」
望美はふらふらと店長のほうに向かって行くのだった。
越久村の意味ありげな笑みを知らずに。
「ええっ?下着もですか?」
「ええ、ドレスを見繕うにはまず下着から合わせて行きませんと」
「で、でも・・・」
望美は恥ずかしさと部長に対する申し訳なさで真っ赤になっている。
「大丈夫ですよ。ぴったりのをご用意いたしますから」
にこやかに微笑む店長に負け、望美は下着からすべて用意してもらうことになった。
やがて店長が用意したのは、ワインレッドのブラジャーとショーツ、それにガーターベルトだった。
望美は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、それでもシルクと思われるその下着の美しさには心が惹かれてしまうのだった。
しばらくして越久村の前に姿を現した望美は、先ほどまでとは一変していたといっていいほどだった。
派手さを感じさせる赤のタイトミニのワンピースに、黒のガーターストッキングを穿き、エナメルレッドのハイヒールと言う妖艶な女性に変貌していたのだ。
思わず越久村が見入ってしまうほどであり、望美の美しさがあらためて引き出されたようだった。
「素敵だよ望美君。とても美しい。惚れ惚れしてしまう」
越久村の顔に賛嘆の表情が浮かんだことに、望美は何か言いようのない喜ばしさを感じていた。
鏡を見たときに感じた自分の姿に対するちょっとした誇らしさと、地位のある男性からの賛美の眼差しとは、望美の心を多少ゆがめていくには充分なものだった。
「ありがとうございます、部長」
望美は優美な足取りで越久村の元へ行く。
「下着も取り替えたかね?見せてごらん」
「えっ?は、はい・・・」
望美はスカートを持ち上げる。
そこにはワインレッドのショーツとガーターベルトが望美の白い肌を彩っていた。
「いい色だ。その服はプレゼントしよう。これからも俺の目を楽しませて欲しい」
「はい・・・」
望美は知らず知らずにそう返事をしていた。
今まで着ていた服などを紙袋に入れてもらい、望美たちはブティックを出る。
先を歩いて行く越久村に、望美は寄り添うようにつき従う。
商店街のショーウインドウに映るミニスカート姿の自分が急に恥ずかしく感じ、思わず周りを意識してしまう望美。
「あ、あの、部長」
「何だね?」
タバコに火をつけ、接待の場所に向かって悠然と歩くその姿は堂々としていて頼もしい。
「ちょっとこの服装・・・派手じゃないですか? なんだか恥ずかしい」
「そんなことはない。あの店長の見立てはたいしたもんだ。とても綺麗だよ」
振り返りはしないものの、ショーウインドウなどを通して望美の姿を確かめているのがわかる。
恥ずかしいけれど、綺麗だと言われるのは望美はとてもうれしかった。
「あ、ありがとうございます」
「普段の君は地味すぎる。君は本当の自分と言うものを知らないのだ。本当の君はまばゆいばかりの美しさを持っているのだから、このぐらいの服装は当たり前なのだよ」
越久村の言葉に望美は思わず苦笑する。
「部長、そう言ってくださるのはうれしいですけど、褒めても何にもでませんわよ」
「ふ・・・まあいい。今日の接待には俺が君の本来の姿であると思うその姿で過ごしなさい。それで納得できなければ明日からは元に戻せばいい。まあ、君はそんなつまらない女じゃないとは思うがね」
望美は一瞬ドキッとする。越久村につまらない女と思われたくない。
その思いが確かに望美の心の奥底で芽吹いていたのだった。
接待そのものは滞りなく行われた。
取引先が越久村に便宜を図ってもらうために宴席を用意したのだ。
最初は料亭での食事だったが、その後はクラブへ繰り出すという算段だ。
取引先は最初望美の存在に驚いたものの、越久村の秘書だという言葉に納得したのか、望美にももてなしを始めるのだった。
ただ、望美にとっては最初のうちは接待相手の男たちの無遠慮な視線にさらされ続け、居心地の悪さを味わっていた。
決して大きくはない望美の胸だったが、タイトミニのワンピースは胸を強調するつくりになっており、男どもは少しでも望美の胸が見えないだろうかといやらしい視線を投げつけ、さらにはガーターストッキングに覆われた太ももにもちらちらと視線を這わせてくる。
だが、越久村の秘書である望美に何かできるはずも無い。
越久村も笑いながらうちの秘書には手を出さんでくれよといい、取引先の男たちはただ望美にいやらしい視線を送るだけだった。
取引先との接待を終えたときには、時刻は夜の十二時を回っていた。
普段は飲まないお酒を飲んだことで、望美は少し酔っていた。
「さて、接待も無事すんだ。どうだったかね?」
「はい・・・なんだか怖かったです」
「怖い?」
望美は越久村の言葉にうなずく。
「なんだか私を見る目がぎらぎらとして・・・まるで獣のような・・・」
お酒のせいもあるのかもしれないが、望美は感じたままの事を言った。
「ふふ・・・獣ね。なに、心配することはない。あいつらは餌を前にしてお預けを食らった犬のようなものだ。君を見てよだれをたらすしかできないやつらさ」
「まあ、部長ったらいいんですか? 取引先をそんなふうに言って」
思わず望美に笑みが浮かぶ。
先ほどまで感じた緊張や恐れといったものはこの瞬間に吹き飛んだ。
「いいんだよ。所詮あいつらはうちとの取引に群がる犬だ。君は俺と同じようにあいつらを犬として見下して笑ってやればいい」
「うふふふ・・・そう考えると彼らも哀れな感じがしますね」
「だが、哀れだからといって情けをかけてはいかんぞ。俺の秘書として望美君もあいつらのしつけをしっかりとしてもらわないとな」
「はい。がんばります」
望美は力強くうなずいた。
「ただいま」
灯りの消えている玄関に入り、小声でそっと言う。
タクシーで送ってもらったとはいえ、すでに深夜の一時に近い。
静まり返った家の中は、健太がすでに寝入っていることを示していた。
望美はそのことにどこかホッとするような気持ちを持つと同時に、どこか寂しさも感じてしまう。
起きて待っててくれたらなと思ってしまうのだ。
もちろん明日も仕事がある以上遅くまで起きてなどいられない。
いつ帰るかわからない望美を待っていられなかったのだろう。
望美はそっと自分の部屋にいくと、一人暮らしのときに手に入れ、将来子供ができたときに子供用にしようと思っておいてあるベッドに腰掛ける。
今日は寝室には行かない方がいい。
お酒のにおいもするだろうし、せっかく寝入っている健太さんを起こしてしまう。
今日はこのベッドで寝よう。望美はそう決めて、パジャマに着替えると眠りについた。
翌朝、望美はやはり多少機嫌のよくない健太に遅くなってしまったことを詫び、多分しょ
っちゅうあることではないと思うので、部長にも前もって言ってもらうようにすることを伝える。
健太としてはかつては自分も営業職だったために接待の必要性は感じており、仕方ないという気持ちではあったものの、やはり夜遅く帰る妻は心配なことに違いはなかった。
だが、朝から望美と口論する気にもならず、いい気分ではなかったものの一応納得して出かけていく。
その様子に望美も今度は遅くならないようにしようと思うのだった。
昨日越久村に買ってもらった服をしわを伸ばしてハンガーにかけ、望美はいつものようにおとなしめのスーツとストッキングを身につける。
越久村はああ言ってはいたものの、やはりこうしてみると昨日の服は派手な気がして望美の趣味には合わないのだ。
こうしたおとなしめのスーツが仕事をしているようで気持ちがいい。
望美は身支度を整えると、会社に向かって家を出た。
「おはようございます」
望美はいつものように部長室に入り、越久村の出勤前に手早く掃除などを済ませていく。
契約の掃除会社が掃除はしてくれているので、机の上を拭いたりするぐらいだが、躰を動かしながら一日の予定を頭の中で確認したりするのだ。
そうしているうちに越久村が出社する。
「おはよう、望美君」
「おはようございます部長」
一礼する望美。
「うーん・・・望美君困るなぁ」
苦笑いしながら越久村が席に着く。
「えっ? 何かありましたでしょうか?」
望美は何のことだかわからない。
「服装さ。君はそんなつまらない女だったかな?」
望美はドキッとした。やはりこんな地味な服装ではいけなかったのだろうか?
でも、仕事をする上であまり派手なのは・・・
「昨日の服を着て来いとは言わんよ。だが、君もあんな感じの服ぐらい持っていないのかな?」
「す、すみません。私あんなに派手な服は持ってなくて。それに今日は接待ではないと思いましたし」
頭を下げながら言い訳のように越久村に言う望美。
「望美君。君は俺の秘書であるということをわかってないのかな。新規プロジェクトに絡んでうちと取引したがっている会社はいっぱいある。いつ接待で呼ばれるかわからないのだよ。そのときになってあわてるつもりかい?」
ハッとする望美。言われてみればその通りだ。
このところ越久村のもとへは各企業の担当者が挨拶に訪れている。
そのいずれもが、今度一席設けますのでと越久村を誘っているのだ。
いつ接待が入るかわからなくなってきている今、それに備えておく必要があると越久村は言っているのだ。
「す、すみません。思い至りませんでした」
今度は深々と頭を下げる望美。
越久村はタバコを取り出すと火をつけて一服吸う。
「まあいい。これを持っていきなさい」
望美の前に一枚のカードが差し出される。
「これは?」
「俺のクレジットカードだ。昨日の店は覚えているかい? あそこで店長に数着選んでもらいなさい。そんな地味なスーツじゃ取引にも影響する」
「は、はい」
おずおずとカードを受け取る望美。
「今から行ってもまだやってないだろうからお昼休みに行きなさい。戻るのが遅れてもかまわないから」
「はい」
望美はうなずくと席に戻って仕事を始める。
だが、内心では越久村に指摘されるまで服装のことに思い至らなかった自分が望美は恥ずかしかった。
お昼休み、望美は外出して昨日のブティックに寄る。
昨日同様美人の店長にわけを話すと、店長はにっこりとうなずいて望美の衣装を見繕い始めた。
望美は一着だけのつもりだったが、店長は着まわすことも考えてとりあえず五着用意するといい、
そのいずれもが扇情的で丈の短いミニや胸の開いた躰のラインをかもし出すような服を選び出して行く。
「昨日のは確かに派手めだったけど、少し抑え目にしたからあなたならこのぐらいは充分着こなせるわ。メイクも少し変えてみてはいかがかしら。それに下着だってそう。こちらに変えてごらんなさい。きっと自分でもびっくりするほど綺麗になれるわよ」
そういいながら店長は下着やアクセサリーも見繕う。
「下着もですか?」
「下着を変えると気持ちも変わるわ。身も心も引き締まるわよ」
店長の言葉には説得力がある。確かにそう言われればそんな気もするのだ。
「メイクを変えると気持ちが変わるのはわかるでしょ?下着も同じなの」
「同じ・・・」
「別に男をたらしこむとか媚びるとかじゃないのよ。下着は女性の内面を磨いて輝かせるためのものなの。いわばそのための道具ね。さしずめビジネスウーマンの武装って所かしら」
「武装・・・ですか?」
「そう。ビジネスに向かう自分を鼓舞するための武装よ」
店長の言葉にうなずく望美。
目の前に置かれた黒や赤の派手な下着は望美でも驚くほどのいやらしさを感じさせる。
今まで健太との夫婦生活にこんな下着を身につけたことなど一度もない。
だが、確かにこれをつけた自分は何か変わるのかもしれないと思う。
それだけに何か一種の魔力を持つような魅力を望美は感じるのだった。
店長にいろいろと見繕ってもらったあと、望美は下着も服も言われるままに取り替える。
昨日と同じように美しくなっていく自分を見るのは、望美にとっても気持ちのいいものだ
った。
「あなたの内面はまだまだ磨かれていない原石のようなもの。こういった下着やメイクがあなたを磨きたててくれるわ」
「やはりメイクも変えたほうがいいんですか? 多少派手目に」
「派手にするというのとはちょっと違うわ。あなたの美しさを引き出すのよ」
店長はそういいながら望美の顔にメイクを施して行く。
あまり濃いメイクはと思った望美だったが、店長によって施されるメイクは望美を見事に変えて行く。
確かに家庭に入って以来メイクをナチュラル系に抑えてきた望美にすれば濃い化粧と言えるかもしれないが、決して濃くも派手にも見えないのだ。
付ける前までは派手だと感じていたアイシャドウや口紅も、店長の手にかかれば望美に新たなる輝きを付け加える彩りに過ぎなくなる。
派手な感じなど微塵も与えず、それでいて望美を妖艶に引き立てる、そういう類のメイクだった。
最後に耳にはピアスをつけてもらう。
なんでも店長はピアスの資格のようなものを持っているとかで、ピアシングニードルで耳たぶに穴を開け、綺麗なピアスをつけられた。
一瞬健太がどう思うか気になった望美だったが、健太とて望美が美しくなるのはうれしいだろうと思い、ピアスをつけてもらったのだ。
すべてが終わった望美は、まさに見違えるように美しかった。
それはさながら蝶の幼虫が成虫に羽化したかのようでもあり、望美も自分の美しさに酔いしれるほどだった。
しかし、いくらなんでもこれは買いすぎだ。
望美は今着ているものだけを購入しようと思い、それも自分のカードで買おうと思ったが、店長は首を振る。
「越久村さんに連絡はもらっているわ。会社の制服のようなものだから気にしないように
って。越久村さんのカードをちょうだい」
「でも・・・それならせめて半分でも」
「あなたは越久村さんに期待されているのよ。越久村さんのために一所懸命に尽くせばそれでいいんじゃないかしら」
「期待だなんて、私はただ部長のあとについて回るだけの秘書代わりですから」
望美の言葉に店長が微笑みかける。
「越久村さんが無能な人に秘書役なんかさせるわけないでしょ?違います?さ、カードをくださいな」
店長に言われて仕方なく越久村のカードを手渡す望美。
これではいくらかかったかわからないが、相当な金額になるのは間違いないだろう。
だが、それだけ自分は期待されているんだと思うと、望美は誇らしくまたうれしかった。
無能なものには秘書役などやらせないという店長の言葉が望美はとてもうれしかったのだ。
「今着ているもの以外は宅配便でご自宅に送りますわ。お仕事にお戻りください」
望美はそう言われ、住所を告げてブティックを出る。
道行く人々が望美の美しさに振り返り、望美は最初は気恥ずかしかったものの、賛美の視線が心地よかった。
「ただいま戻りました」
望美が戻ると、越久村は満面の笑みを浮かべた。
「おお、見違えたよ。さすがは望美君だ。とても美しい」
「うふっ、ありがとうございます部長」
越久村の賛辞は望美にとってはとてもうれしい。
それだけで恥ずかしい思いをしたかいがあるというものだった。
「その服は君の制服のようなものだ。これからも俺の秘書であることに誇りを持って頑張
ってくれよ」
「ありがとうございます部長、すごくたくさん買ってしまったんですけど、本当にいいんですか?」
「かまわんよ。これも仕事のうちだからね。美しい秘書を見て相手が取引したいと思ってくれれば安いものじゃないか」
美しい秘書と言う言葉がとてもうれしい。
それに越久村はあくまで仕事であるという姿勢を崩さない。
そのため、望美も仕事だからこの服装なんだと納得することができるのだった。
次の日から望美は見繕ってもらった衣装に店長に教わったような美しいメイクをして出社するようになった。
見る者に妖艶さを感じさせるような衣装ではあるものの、これはあくまでも仕事着であり、突発的な接待などにも対応できる衣装だからと望美は納得していたし、何より自分に向けられる視線が心地よかった。
ただ、会社に行く途中に痴漢に遭ってしまった事があり、そのことを知った越久村がわざわざ朝迎えに来てくれるようになる。
そのことが部下を大事に思ってくれる越久村の思いやりに感じて望美はとてもうれしかった。
健太は望美がそんな妖艶さを漂わせる服装で出勤していることなどまったく気がついていなかった。
越久村の新規プロジェクトに伴う新規開発で企画開発部門はてんてこ舞いの忙しさだったのだ。
自然と夜も遅く帰ることが多く、夜十一時ごろになることもしょっちゅうとなっていた。
当然夕食を家で取ることも少なくなり、望美も夜を外食で済ませるようになっていた。
朝は望美の出勤前に健太は家を出てしまい、夜も望美の方が早いために、望美の服装の変化など判るはずもなかったのだ。
******
「おはようございます」
いつものように越久村の車の助手席に乗り込む望美。
タイトスカートから伸びる脚が越久村の目を楽しませる。
黒のストッキングがなまめかしい。
越久村は望美が近所の人の好奇の目にさらされるのを案じて家までは迎えには来ない。
最寄の駅の近くで待ち合わせをしているのだ。
「おはよう望美君。いつも綺麗だよ」
「ありがとうございます。部長も素敵ですわ」
車を走らせる越久村の手が望美の太ももに伸びて行く。
「あはっ、もう・・・部長ったら」
最初は驚いていた望美だったが、特に太ももから股間に手が伸びてくるのでもなく、どちらかと言うと撫でてもらっているという感じが強かったので、最近はお尻タッチと同じくほとんど気にならなくなっていた。
むしろ自分の脚を褒めてもらっているようでうれしくさえあったのだ。
「おっといかんいかん。運転中だったな」
そう言って大げさに手を引っ込める越久村。二人の笑い声が車内に広がった。
「えっ?出張ですか?」
「そうだ。今週末に一泊で金沢へ行く。望美君も一緒だ」
「私もですか?」
望美は驚いた。まさか出張に同行するなど考えたこともなかったのだ。
「当然だろう。君は俺の秘書なんだからな。手助けをしてもらわないと困る」
「で、でも・・・」
望美の脳裏に健太のことがよぎる。
このところゆっくり顔をあわせていないので、週末は映画でも行こうかと話していたところだったのだ。
「週末は・・・」
「重要な仕事だ。よろしく頼むよ」
越久村にそう言われては望美には断れない。それに今は仕事が楽しかった。
健太との休日はまた今度も機会があるだろう。そう思った望美は越久村にうなずいた。
「ただいま。ふう・・・」
この日も健太の帰宅は夜十一時を過ぎていた。
「お帰りなさい、健太さん」
パジャマに着替えていた望美がちょっとかげりを浮かべた表情で出迎える。
「ただいま」
疲れているのだろうが、それでも健太は笑みを浮かべた。
愛する望美の顔が見られれば、疲れなどは吹き飛んでしまう。
望美は健太のカバンを受け取り、リビングに入る健太のあとに続く。
「お食事は?」
「いらない。会社で食べてきた」
ソファーに腰を下ろす健太。
このところの企画開発部門の忙しさは社内でもバックアップ体制がとられており、残業にはちゃんと夕食が用意されるようになっている。
だから健太も夕食は会社で取っているのだ。
「そう・・・」
何か言い出そうとしているようで言い出せないでいる望美に気がつく健太。
「どうしたんだい? 日曜日のことなら大丈夫だよ。明後日までに一区切りつければ明後日は休めるから」
「そのことなんだけど・・・ごめんなさい」
望美が頭を下げる。
「ど、どうしたんだい?」
「土曜日に出張が入っちゃったの。土日で金沢に行かなくちゃならないの。だから映画はまた今度・・・」
望美の思いもかけない言葉に絶句する健太。
どうにかがんばれば日曜日は休めるということを励みにして仕事してきたのだったが、それが無駄になってしまったのだ。
「どうして望美が出張しなくちゃならないんだ? 望美は単なる雑務を処理するための採用だろ?」
「私も今では越久村部長の秘書みたいなものなのよ。だから部長の仕事の手伝いをしなくちゃならないの。ごめんなさい。来週は大丈夫だと思うから・・・」
すまなそうにしている望美だが、健太はどうにも心が収まらない。
「いいよ。どこへでも行ってこいよ」
ふてくされてはずしたネクタイを放り投げる健太。
おもむろに立ち上がると、冷蔵庫からビールを取り出す。
「ごめんなさい。仕事だから・・・」
健太が怒るのももっともだと思う望美はひたすら頭を下げるしかない。
「いいって言ってるだろ。二言目には仕事仕事って、そんなに仕事が大事なのか?」
「だからごめんなさいって言ってるでしょ。仕方ないじゃない。健太さんだって仕事で休めないときぐらいあるでしょ」
健太の態度につい口調が荒くなってしまう望美。
謝っているのに、受け入れてもらえないのはつらくなる。
「ああ、だからいいっていってるだろ。もういいって!あーーあ、つまんねえなぁ」
缶ビールの口を開け、ごくごくと飲み干して行く健太。
言っちゃだめだとは思うものの、どうにも収まりがつかないのだ。
今は何を言っても無駄だと思った望美はそっと部屋を出る。
「望美、なんだかタバコくさいぞ。シャワー浴びてんのか?」
「なっ?」
望美は驚いた。
健太の帰りがいつになってもすぐ出迎えられるようにシャワーを浴びずに待っていたというのに、その言いようはあんまりだった。
望美は半泣きになりながらシャワーを浴びる。
出てきたときにはすでに健太は寝室に行ったあとだった。
望美は結局寝室には行かずに、自分の部屋のベッドで眠るのだった。
翌朝は健太も望美も無言のままだった。
健太も悪かったとは思っているものの、やはり素直には謝れない。
だいたい仕事仕事と男性社員じゃあるまいしとも思ってしまうのだ。
結局健太は無言で朝食を済ませ、身支度を整えて出かけてしまう。
望美は健太が出かけたことでホッとしていた。
息詰まるような雰囲気がどうにもいやだった。
確かに仕事が入ってしまったことで約束を破ってしまったことは申し訳ない。
でも、それをいつまでも子供みたいに拗ね、その上タバコくさいなんて言われるとは思わなかった。
部長ならあんなことは言わないに違いないわ・・・
タバコなんて一本も吸ってないのに・・・
それにタバコのにおいってそんなに気になるものかしら・・・
望美は首を振っていやな思いを振り払う。
これから仕事に出かけるというのに、暗い思いを引きずっていてはいられない。
望美はいつものように少し淫靡さを感じさせる下着を身につける。
家では決して着けない下着で、これを身に着けるだけでなんだか気分が引き締まる。
そして、あの日以来時折寄るようになったブティックで手に入れた衣装を身に付ける。
多少扇情的ではあるものの、躰のラインを綺麗に見せ望美の美しさを見事に引き出す衣装だ。
最後は最近手馴れてきたメイクで表情を引き締める。
メイクが終わるころには望美はもう健太とのいさかいなど忘れていた。
これから越久村と仕事をするのだ。そう思うと自然と気持ちが浮き立った。
「おはようございます」
「おはよう、望美君」
越久村の車に乗り込むころには、望美はもう普段の望美に戻っていた。
タバコの煙が充満する車内だったが、なぜか望美はホッとしたものを感じていた。
ここにはいつもの空間がある。仕事に向かうときのちょっと高揚するような気持ち。
やりがいを感じる充実した毎日の始まりなのだ。
その象徴ともいうべきタバコの煙を、望美は好きになっていた。
「何かあったのかな?」
望美は驚いた。
普段と変わらないつもりでいたのに、どうして越久村にはわかったのだろう?
「どうしてわかるんですか?」
「俺が鈍い男に見えるかい?毎日君の顔を見ているんだよ。何かあったかぐらいはすぐにわかる」
「あ・・・」
越久村に見守られているようで望美はすごくうれしくなる。
心に温かいものが広がって行く。
「健太さんとちょっと言いあいをしちゃったんです」
越久村には素直に夕べのことが言えてしまう。
「塩原君と? いったいどうしたんだい?」
心から心配してくれているような越久村の言葉が、望美はすごくうれしかった。
「実は・・・週末の出張のことを言ったら健太さんが機嫌を悪くしちゃって・・・」
「どうしてだい? 仕事だから仕方が無いだろう」
「ええ、私もそう言ったんですけど、健太さんたら納得してくれなくて・・・」
夕べの健太のことを思い出すと、約束を守れなかった自分が悪いというよりも、健太がわがままな子供に感じてしまう望美。
「それは塩原君も大人気ないな。いい大人なんだから妻の仕事を理解してやらなくちゃ」
「ええ、そうですよね。私が我慢してって言ったのに聞いてくれないし。それにすごく失礼なこと言うんですよ」
「失礼なこと?」
越久村が眉をひそめた。
「あ、これは部長が悪いとか言うんじゃないんですから誤解しないでくださいね。健太さんたら私のことタバコくさいって言ったんです」
タバコのにおいなんてそんなに気になるものかしらと望美は思うのだ。
「それはひどいな。こんなに美しい君を捕まえて」
「まあ、部長ったら。お世辞でもうれしいです」
微笑を浮かべる望美。
「世辞ではないよ。しかし塩原君もちょっと神経質すぎるんじゃないかな。望美君はタバコのにおいは気になるかい?」
「いいえ。最初はちょっとむせるような感じでしたけど、今は気になりません。部長のお
っしゃるとおり健太さんは気にしすぎるんだと思います」
「そうだな。ちょっと塩原君は周囲に甘えているところがあるからな。わがままで神経質なところがあるんだろう」
「そうなのかもしれません・・・ふう・・・あんな人だったかしら・・・」
なんとなく健太への思いに幻滅を感じてしまう望美。
それに反比例するように、越久村の男らしさやたくましさに憧れを感じてしまうのだ。
望美は知らず知らずのうちに、タバコを吸う越久村の横顔に見惚れていた。
「望美君ご苦労さん」
終業時間が近づいた望美に越久村が声をかける。
「あ、部長もお疲れ様です。明日は出張ですね。私で勤まるでしょうか・・・」
「心配は要らないさ、出張といっても顔つなぎのようなものだから難しいことは無いよ。いつもどおりでいればいい」
「はい。ありがとうございます」
越久村の言葉は本当に心強い。
少しでも越久村の役に立てるならこんなうれしいことは無いとも望美は思う。
「塩原君は今日も遅いんだろう?」
「ハイ、そう思います。このところ忙しそうですから・・・」
「だったら帰りに食事でもどうかな?望美君も一人で食事は味気ないだろう」
「えっ?」
望美は驚くと同時にうれしくなった。
越久村が食事に誘ってくれたのがうれしかったのだ。部長は私を気にかけてくれている。
そう思うと、望美の返事は決まっていた。
「はい。喜んで」
望美は大きくうなずいていた。
食事は楽しかった。雰囲気のいいレストランでワインを飲みながらの食事。
越久村との会話は仕事の話題が中心ではあったものの、ワインの酔いも手伝って望美にはすばらしい時間となったのだった。
越久村の車で送ってもらうとき、越久村の手がいつものように太ももに伸びてきたが、望美はそれがすごくうれしかった。
伸びてきていた越久村の手を握り締め、その温かさに酔いしれる。
このまま越久村と別れるのは寂しかった。
家の近くまで来て車が止まったとき、望美は越久村の手を強く握り締めてしまう。
「望美君」
「部長・・・」
望美は黙って目を閉じた。やがて望美の唇には、越久村の唇が重ねられるのだった。
「ただいま」
今日も帰りは夜の十二時近かった。
「ふう・・・」
「お帰りなさい」
玄関まで健太を迎えに出る望美。疲れ果てた表情の健太がカバンを差し出してくる。
望美はそれを受け取り、健太がリビングに向かうのについていった。
健太は言葉を捜していた。いや、探す必要はなかったはずだった。
ただ一言ごめんといえば済むのだ。
仕事に振り回されるのは会社員なら当たり前のことだ。
望美が自ら予定を入れたわけじゃないのだから、仕方ないと割り切ればいいだけだったのだ。
だが、どうしても言葉が出ない。結局健太は無言でリビングに入っていく。
「ふう・・・」
いつしか望美もため息をついていた。
無言でリビングに入っていく健太の後姿は、どう見てもさえない感じだったし、部長のような男らしさを微塵も感じさせないのだ。
部長ならもっとシャキッとしているのに・・・
そう思うと健太に多少の幻滅を感じてしまう。
こんなに彼って覇気のない人だったかしら・・・
望美は無言の健太をリビングに置き去りにしてカバンを健太の部屋に置きにいく。
二人の住むマンションはそれなりの広さを持っており、健太も望美も一部屋ずつを持っていた。
カバンを置いた望美はリビングに戻る。
うつむいた健太の疲れきった様子に望美はますます幻滅するのを感じていた。
「お疲れ様・・・ビールでも飲む?」
「いや、いらない。ふう・・・疲れたよ」
そんなのは見ればわかる。
でも、せめてもう少し男なら格好付けでいいから疲れた表情など見せないで欲しい。
部長なら絶対にこんな顔は見せないわ。別れる間際の口付けが思い出される。
ほんの少し健太に対して心が痛んだが、疲れた表情の健太にはただ哀れさを感じるだけだ
った。
「なあ・・・望美・・・」
「ねえ、健太さん」
二人はほぼ同時に声をかける。
「う、望美からどうぞ」
健太が一歩譲る。彼はただ夕べのことを誤ろうと思ったのだ。
その上で仲直りをして来週にでも映画に行けばいい。
だが、それを自分から言うのはどうも気が引けた。
望美が何をいうのか確かめてからでもいいと思ったのだ。
「えとね、ほら、私最近越久村部長のタバコにさらされててタバコくさいって言ってたでしょ?今日からちょっと寝室分けようかなって思うの」
「えっ?」
「シャワー浴びたりもするけど、健太さんの気に触ったりしたらいやだから、私の部屋で寝るわ。それならタバコのにおいは気にならないでしょ?」
望美の言葉に健太は唖然とした。そんなつもりじゃなかったのに・・・
「いや、だ、大丈夫だよ。望美がタバコくさいなんてことないから。寝室分けることないよ」
「ううん。私がもっとちゃんと気がついていればよかったのよ。健太さんタバコ嫌いだもんね。ごめんね。越久村部長ったらヘビースモーカーだから私もそれに慣れちゃっていたところあるし。だから別にしましょ。そのほうがいいわ」
望美にとっても寝室を別にして少し健太と距離を置きたかったのだ。
部長の言うとおり、少し距離を置くことでお互いに見えてくるものもあるかもしれない。
そう思ったのだ。
健太はもう何もいえなかった。望美はまだ怒っていると感じたのだ。
だったらもう勝手にしろと言う気がわいてくる。
「わかったよ。好きにしろよ」
健太はそう言って望美から顔を背けた。
「そう・・・それじゃおやすみなさい」
望美はふうと一つため息をつき、自分の部屋に入っていった。
「おはようございます」
出張用に少し大きめの荷物を持った望美が越久村の車に入り込む。
健太との朝の気まずい陰鬱な時間も過ぎ、これから越久村と二人になれると思うと、自然と表情がほころんでくる。
「おはよう望美君。ほう、今日は素敵なワンピースだね。よく似合っているよ」
越久村の言葉が望美の心を浮き立たせる。
紫の躰にぴったりしたワンピースは、望美の見事なプロポーションを浮き立たせ、なまめかしさをかもし出していた。
「ありがとうございます部長。うれしいですわ」
望美は最高の笑みを越久村に向ける。
今までこの笑みは健太に向けられていたはずなのに、いつしか望美の笑みは越久村に向けられるようになっていたのだ。
「ベージュのストッキングがとてもよくマッチしているよ。実に美しい」
「うふふ・・・部長にそう言ってもらえると本当にうれしいです。健太さんならそんなことちっとも言ってくれませんから」
「塩原君にも困ったものだな。望美君の美しさがわかっていないんだな」
わかっていない?そうかもしれないと望美は思う。
タバコのにおいとか妙なことには細かいくせに、ピアスをしたことには何も言わなかったりするのは、私をよく見てないのかもしれない。
もしかしたら健太にとっては、そばにいるのが望美でなくてもいいのかもしれない・・・
空気のようにそこにありさえすれば誰でもいいのかも・・・
「さて、それでは行こうか。一度会社に寄ったらすぐに出かけるぞ。準備は問題ないね?」「はい。出張に持っていく資料は昨日のうちにまとめてあります」
「さすがだ。君がいてくれて助かるよ、望美君」
「ありがとうございます」
飼い主に撫でてもらった仔犬のように、望美は越久村に褒められてとてもうれしく思うのだった。
金沢への出張は久しぶりの遠出とあって、望美にとっても楽しみだった。
颯爽とした越久村と並んで歩いていると、とても心が浮き立つのだ。
航空機で小松空港に降り立った二人は、手配してあったレンタカーに乗り金沢市内へと向かう。
綺麗な日本海を左手に望みながら走っていると、いつしか越久村の手は望美の太ももを触
っていた。
あ・・・うれしい・・・少なくとも部長は私を必要としてくれている。
部長は誰でもない私をそばにおいてくれている。
そう思うと望美はすごくうれしくなる。
望美は越久村の手に自分の手を重ね、昨日と同じようにそのぬくもりを味わった。
取引先との会合は、まったく問題なく終了した。
越久村の秘書として寄り添い、ストッキングに包まれた脚を優雅にそろえていた望美の姿を、取引先の男どもは意識しないようにしながらも盗み見ることをやめられないようだった。
望美にはそれが手に取るようにわかり、あえて脚の位置をずらしてみたりする。
すると男どもの視線がそれに連れて動いているのが見え、とても楽しいのだ。
何とか気を落ち着けようとしてタバコを吸う彼らと越久村自身のタバコの煙とが交じり合い、応接室は白くかすむほどだったものの、望美にとってはかえってその香りが心地よか
った。
「いやぁ、どうもありがとうございました。わざわざ金沢まで来ていただいて恐縮でした。どうです?もし良かったらこの後一席設けてありますが・・・」
そう言って引き止める取引先に、越久村は首を振る。
「いやいや、先日も申し上げたとおり今回は辞退させていただくよ。また折があればということで。そうそう、今度はこちらへおいでなさい。そのときにはいい店を紹介するよ」
「このまま手ぶらで返したとあっては、私が社長にどやされます。どうか一席・・・そ、そうですか・・・」
再度申し出ては見たものの、越久村の意志は固いようではねつけられる。
結局、その場で取引先と別れ、越久村と望美は二人きりになるのだった。
「よかったんですか、部長?接待を蹴ったりして。取引に支障が出たりしませんか?」
堅苦しい接待からまぬがれてホッとした気持ちがあるのは確かなものの、このことが何か差し支えることにならなければいいと望美は思う。
「ふん、どうせそれほどたいした取引先じゃない。切られて困るのは向こうの方さ。せっかくの金沢の夜を接待なんぞでつぶされるのはごめんだ」
越久村はそう言って笑った。
二人はレンタカーで夕方から夜にかけて金沢市内をドライブする。
いつもの仕事に向き合う越久村とは違い、名所を回りつつも金沢に生まれた高名な文学者の故事などをさらりと口にしたりする今日の越久村に、望美は彼の新たな面を見出すとともによりいっそうの憧れを感じてしまう。
そしていつしかレンタカーは郊外へ向かい、一軒の落ち着いた雰囲気を漂わせる和風のお屋敷に到着した。
「ここは?」
望美は一瞬その雰囲気に飲まれたように立ち尽くす。
「料亭旅館とでもいったところかな。今夜はここに泊まる。食事も楽しみにしているといい」
越久村が笑みを浮かべて歩き出すのに合わせ、望美もその後をついていく。
金沢出張ということで、望美もいくつかの有名どころをピックアップしていたのだが、これはまったくの予想外だった。
「こんなところが・・・」
落ち着いた雰囲気がとてもよく、先ほどまで気圧された望美ではあったものの、すぐにここが気に入った。
この旅館は、かつては武家の屋敷だったという。
豪華なお風呂でゆったりと気分を癒し、用意された食事を越久村と二人で楽しく味わうのだ。
無論食事も内装同様にすばらしく、加えて決して押し付けじゃない行き届いたサービスは、望美を十二分に満足させてくれた。
お酒も入ってほろ酔い気分の望美は、いつしかこんな素敵な旅館を用意できる越久村の奥深さにも酔いしれていることに気がつかなかった。
日常から離れた旅先という環境が望美の思考を鈍らせる。
越久村に乞われるままに酒を注ぎ、肩を抱かれてその酒を口移しで飲まされる。
越久村の口から注がれる液体は、とても甘美で美味しかった。
やがて越久村の手は浴衣姿の望美の懐に入り込む。
風呂上りのすべすべの胸を越久村の手が荒々しくつかみ、思わず望美の口から声が漏れる。
風呂でもお酒でもない熱が望美の躰を燃え上がらせ、あそこがじんわり濡れてくる。
抱きかかえられるようにして用意された布団に寝かされ、越久村の手で望美の浴衣ははだけられた。
「望美」
「あ・・・だめ・・・です・・・」
言葉だけとなった拒絶を無視し、越久村の指は望美の敏感なところを刺激する。
ピクンと体が反応し、いつしか越久村の首に両手を回していることにも気が付いてはいなかった。
「あ・・・」
猛々しいものが望美の躰を貫き、全身を走る快感が少しの後ろめたさをかき消していく。
越久村のほとばしる欲望を体内に感じたとき、望美は確かにエクスタシーを味わっていたのだった。
越久村の胸に顔をうずめたまま余韻に浸る。
たくましく厚い胸板は望美を暖かく包んでくれるものだった。
部長にならどうされてもいい・・・そんなことさえ思ってしまう。
ふわっとタバコの煙が顔にかかる。
越久村が吸うタバコの香りがなんだかとても心地よい。
「ん? 目が覚めたのか」
「あ、はい、部長」
越久村の目が望美に向けられ、望美は思わず微笑んだ。
「どうした?」
「くすっ・・・部長がタバコを吸うのを見てました。美味しそうに吸うんですね」
「ああ、とても美味い。食事の後や仕事中の一服も捨てがたいが、何よりすばらしい女を抱いた後のタバコは最高の味だ」
「うふふ・・・お世辞でもうれしいです」
お世辞とわかっても悪い気はしない。
越久村のような男にすばらしい女性と言われるのは光栄なのだ。
「君は最高の女だ。そうでなければ俺は抱かん。どうだ、一本吸ってみるか?」
「えっ?」
越久村が差し出したタバコを見て望美は一瞬ためらった。
「美味いぞ。吸ってみろ」
望美はずっとタバコは嫌いだった。
だが、越久村がタバコを吸う姿は見ていてとても素敵だったし、タバコの煙も今ではほとんど気にならない。
吸ってみようかな・・・望美はおずおずと手を伸ばす。
差し出されたタバコを受け取って咥え、越久村が差し出したライターで火をつける。
「すう・・・ゴホッ、ゲホッ・・・」
「ハハハ、慣れないとそんなものだ。ゆっくりと吸ってごらん」
いきなりでむせた望美に越久村が笑う。
望美は言われた通り今度はゆっくりと吸ってみた。
タバコの煙が肺の奥に流れ込み、とても美味しく感じられる。
「すう・・・ふう・・・こうですか?」
「そうそう。そうすればむせないだろう?」
「はい、そうですね。結構美味しいかも」
もう一度タバコを深く吸い込む望美。
なんとなく越久村とよりいっそう近しい存在になれた気がして、望美はうれしかった。
「ふう・・・うふふ・・・これで部長とおそろいですね」
「ん? ふふふ・・・そうだな。おそろいだ」
意味ありげに笑みを浮かべる越久村。
望美が思い通りに彼好みの女になってきていることに満足していたのだ。
「ふう・・・美味し。タバコってこんなに美味しいんだ。はまっちゃいそう」
望美はあっという間に一本吸い終わると、越久村の差し出す二本目に火をつけるのだった。
翌朝、越久村に再び抱かれて火照った躰を風呂で洗い流した後、望美は自販機で越久村と同じタバコを買い求めた。
部屋でタバコを吸っていると、越久村のぬくもりを感じられるようでとても心地よい。
タバコの味がすっかり気に入った望美は、続けざまに二本三本と吸っていき、越久村がなぜあれほどタバコを吸うのか理解できたような気がして、また一歩越久村に近づけたような気分になっていた。
「おやおや、望美もすっかりタバコが気に入ったかな」
遅れて風呂から上がってきた越久村が、窓辺でタバコを吸っている望美の姿に目を留める。
風呂上りの浴衣姿でタバコをくゆらす望美の姿は、越久村を充分に満足させるほど美しか
った。
「お帰りなさいませ部長。ええ、タバコって美味しいですね。今まで嫌って吸わなかったのがバカみたい」
タバコの煙を吐き出しながら、越久村に向かって笑みを浮かべる望美。
望美と呼び捨てにされることがうれしい。
妖しい美しさに包まれた望美は、健太には想像も付かないものだったに違いない。
この美しさを引き出すことができて、越久村は充実感を味わうのだった。
旅館を出た二人はレンタカーで空港へ向かう。
運転を始める前に越久村は、助手席に座った望美の肩を抱いて抱き寄せ、そのまま唇を重ねていく。
舌を絡めあう濃厚なキスが交わされることに、望美はまったく抵抗を感じない。
たった一晩の出来事が、望美の心を大きく変えてしまっていたのだ。
ドライブの最中も、越久村の手が太ももから股間に伸びてくるのを拒むどころか、多少恥ずかしがりながらも太ももを広げてその奥に触れることを許してしまう。
健太といるときには想像もしなかったときめきが、望美の心を支配していたのだった。
自宅近くで越久村と別れたとき、望美ははっきりと越久村と別れたくないと感じていた。
このままどこかへ行ってしまってもいいとさえ思ったのだ。
だが、家が近くなり、健太の顔を思い出したとき、望美は罪悪感が募るのを感じていた。
夫のある身でありながら、別の男と一夜を過ごしてしまったことに罪の意識を感じたのだ。
「ただいま・・・」
なんとなく後ろめたさを感じながら玄関をくぐる望美。
まるで反応をうかがうようにしばしその場で立ち尽くす。
出張を無事終えて帰宅した安堵感と、夕べからの出来事の罪悪感が混じり合い、複雑な思いが望美の中を駆けめぐった。
健太さんに何か言われたらどうしよう・・・
そんな思いとは裏腹に、玄関に健太が出てくることは無かった。
出かけているのかしら・・・望美は荷物を抱えて家の中に上がりこむ。
リビングにも健太の姿は無く、望美はなんとなく気が抜ける。
お土産に買った金沢名物をテーブルの上に置き、自室で服を脱ぎ捨てて一息入れる。
越久村に素敵だと褒められたワインレッドの下着も脱いで、地味な白の下着と落ち着いたゆったりした服に着替えると、なんともいえない安堵感に包まれる。
出張に行ったままの服装では、なんとなく健太に会いたくはなかったのだ。
落ち着いた気分になった望美は、窓辺に椅子を持ってきて窓を開け、タバコを取り出して一服する。
煙が肺にいきわたり、とても美味しく感じてしまう。
灰皿用意したほうがいいわね・・・ああ・・・でも健太さんがうるさいかも・・・
家では吸わないほうがいいかしら・・・
でも・・・こんなに美味しいとは知らなかったわぁ・・・
わずかの間に望美はタバコの虜になってしまっていた。
望美がタバコを吸い終えて、着替えた服を洗濯機に入れていると、リビングに健太が姿を現した。
「あ、帰ってたんだ。お帰り」
健太にとってのなんでもない一言が望美の心をいらだたせた。
「ただいま・・・」
妻が帰ってきたのだから、家にいたのなら出迎えてもよさそうなものなのに・・・
「ごめんごめん、部屋でヘッドフォンで音楽聞いてたんだ。気がつかなくてごめんよ」
健太が笑いながら頭を下げる。
「いいのよ、気にしてないわ。それお土産。後で食べてね」
いつもならこういったものは一緒に食べようというはずなのに、今の望美にはそういうことができなかった。
「ごめんなさい。ちょっと疲れたの。少し部屋で休んでいるわね」
健太と一緒にいるのがやはり気分的に重くなった望美は、自分の部屋に戻ってしまう。
ベッドにごろんと横になると、越久村との一夜が思い出されてくる。
いけないと思いつつも、望美の心は越久村を求めてしまうのだ。
私・・・健太さんの妻なのに・・・
思わないようにすればするほど越久村のことが思い出されてくるのだった。
夕食は味気ないものだった。
無言で料理を作る望美に、健太は何か変だなとは思ったものの、出張で疲れたという言葉に無理に納得して言葉をかけるようなことはしなかった。
気分のよくないときには無言になるものだ。そう思い、そっとしておこうと思ったのだ。
自然と夕食時も会話は無く、もくもくと食事を終えた望美が後片付けもそこそこに自室に入るのを、ただ黙って見送ったのだ。
相変わらずかすかににおうタバコのにおいが、越久村のヘビースモーカーぶりをうかがわせる。
タバコの嫌いな望美が、一日中越久村のそばでタバコの煙を吸わされているとなると苦痛だろう。
今は仕事への義務感から我慢しているに違いないが、半年の期限が終わればきっとやめるに違いない。
そのときは二人でどこか旅行に行ってもいいな。
有給を三日なり四日なりとって、北海道へでも行こうか。
いやいや、秋口の北海道よりも海外のほうがいいかなぁ。
そんなことを考える健太だった。
「はあ・・・」
思わずため息をついてしまう望美。どうしても健太の顔がまともには見られない。
越久村との時間は確かにすばらしいものだった。でも、自分は健太の妻なのだ。
出張という普段とは違う環境で、きっと自分を見失っていたに違いない。
もう忘れなきゃ・・・そうは思うものの、忘れられるはずも無い。
いつしか望美の手はタバコを求めてさまようが、朝に旅館で買ったタバコはすでに空にな
っていた。
タバコが吸えないことに気がつき、いらついてしまう望美の心。
空のタバコの箱を握りつぶし、そのままくずかごに放り投げる。
タバコ・・・吸いたいなぁ・・・望美はいらつく心を抑えようと目を閉じる。
やがて眠りが望美を闇の中へと誘っていった。
「おはよう」
テーブルについて新聞を読み始める健太。
望美はすでに起きて朝食の支度をしてくれている。
熱いコーヒーで目を覚まし、新聞に目を通すのが朝の日課だ。
「おはよう健太さん・・・」
なんとなく望美の声は元気が無い。
疲れが取れないのか表情もうつむき加減でよく見えない。
「大丈夫かい?」
「えっ? な、何が?」
健太がいたわるように声をかけると、望美はびっくりしたように振り返る。
「いや・・・まだ疲れが取れないのかなと思って・・・」
「あ、え、ええ。出張なんて初めてだったから疲れが抜けないの」
ぎこちない笑みを浮かべる望美。素敵な笑顔だが、多少のかげりを帯びていた。
「そうか。無理はしないようにね」
「ええ、大丈夫」
そう言うと、望美はすぐにキッチンにもどって行く。
健太もそれ以上のことは言わずに、朝の支度に没頭した。
内心の動揺を気づかれなかったかとどきどきする。
健太に声をかけられたとき、真っ先に思ったのは越久村との夜のことだったのだ。
健太を裏切って別の男に抱かれたという事実が、望美の心を苛んでいく。
だが、もう二度としてはいけないと思いつつも、これから会社に行くことを考えると、望美の心臓は高鳴った。
そのことがまた望美の胸中を複雑にし、健太の顔をまともに見られなくしていたのだ。
健太が朝食を食べ終え、身支度を整えて出勤していったとき、望美は心の底から安堵する自分に気がついた。
健太が出かけてしまうと、望美の心は羽ばたき始める。
いそいそと下着を脱ぎ、黒の淫靡さを漂わせる下着に取り替える。
化粧台に向き合ってメイクをし始めると、いつしか健太のことは望美の心から消えていく。
越久村に会える。越久村と仕事ができる。
そう思っただけで、望美は胸がきゅんとなる。
もう過ちはしてはいけないという思いが、もう一度抱かれたいという思いに塗りつぶされていく。
「部長・・・」
赤く塗られたつややかでなまめかしい唇が、思わず越久村を呼んでいた。
仕事にはあまり似つかわしくない胸元の開いたスーツに身を包むと、望美は越久村の待つ待ち合わせの場所へと向かっていった。
「おはようございます」<br
次の体験談を読む