08月27

「南京大虐殺」首謀者として裁かれた松井岩根大将

「南京大虐殺」首謀者として裁かれた松井岩根大将

松井石根(まついいわね)陸軍大将は、大東亜戦争後の東京裁判で、絞首刑の判決を受け、処刑されました。

罪状は「南京における捕虜及び一般人に対する虐待」というもので、日本人の自虐史観の元となる「判決」となりました。しかし、実際には「証言」以外に明確な虐殺の証拠もなく、裁判のあり方そのものが不当なものでもありました。

松井大将は、1937(昭和12)年8月に、中国派遣軍の司令官に任命されます。当時は予備役として、熱海の別荘で暮らしていたのですが、軍からの命令を受け、上海へと向かいます。

彼は大尉時代に、日露戦争の最前線で戦った経験から、日本・アジアの危機を敏感に察知していました。そして、欧米の軍事的な侵略がこのままエスカレートすると、やがてアジア全体がその植民地になってしまうという危機感を持っていました。

そのためには、アジアにおいて日本と中国が強い結びつきを持って欧米に対抗すべきだ、と考え、「大亜細亜協会」という団体を創り、積極的な活動を行っていきます。

また、孫文や蒋介石と親交を深め、彼らの政治活動をバックアップする一人になりました。その後、現役の軍人を退き、予備役の立場から「日中友好親善」を推し進めます。

しかしながら、松井大将の考える日中友好は、欧米や当時の共産党(コミンテルン)の策略によって破たんしました。そして、皮肉なことに、1937(昭和12)年に日中間で戦争となり、さらに、自分自身が、派遣軍の司令官に任命されるのです。

当時の上層部には、日中親善を説いていた松井大将の名前が、国際世論に対して、一方的な侵略ではない、というアピールができると考えたのではないかと思われます。当然、中国側にとっても、単純な強硬策ではないことを伝えることもできたはずです。

さて、実際の戦闘は上海で始まりますが、日本側2万対中国側20万と圧倒的に兵力で不利な状況でした。

その結果、日本軍は3か月間の戦いで25万人の兵力のうち、1万人の死者を出す凄惨な消耗戦を強いられました。しかしながら、最終的には中国軍が崩壊し、勝利を収めることになります。

この上海から、国民党政府の首都南京までは、数日を要する距離で、いよいよ首都攻略か、という状況になりました。

防衛側の指導者、蒋介石は、南京での戦いは難しいので、「オープンシティ」(無血開城の意味)にすることを提案したそうですが、側近の一人である唐生智が強硬にその防衛を主張したために、戦いとなったのです。

唐氏は、その後中国共産党の幹部となり、湖南省の知事になります。一説によると彼も当時から共産党のスパイとして、この無謀な戦いを仕掛けたとも言われています。

さて、戦いを行うことになった国民党軍は、上海での大打撃の影響で優秀な兵隊は少なく、現地で急きょ集めることとなりました。彼からは、元々戦意も高くはなく、流されるような形で兵士になった人たちでありました。

しかも、「便衣兵」(ゲリラ兵)と言って一般市民を装って日本軍を襲撃する兵士もおり、一般市民と区別をつけるのが難しく、大混乱をもたらしました。

南京戦そのものは、3日で終わり、日本軍の一方的な勝利に終わりました。その中で、南京防衛を強行に主張した唐生智自身は、いの一番に逃げ、残された中国軍は大混乱に陥ります。

その中で死んだ中国兵も相当いたようです。南京攻防に関して、最も罰されるべきは、唐氏のような無責任に死者を出すような行動を行った人物ではないでしょうか。

さて、南京の攻略に成功した松井大将は、市内での治安を維持するために、大変厳しい軍律を課しています。

これは、いくつかの明確な証拠として残っています。また、現存している松井大将の日記を見ても、南京占領当時の軍律維持について大変な気遣いをしていることが分かります。

その理由は以下のとおりです。

(1)当時の日本政府・参謀本部ともに、国際世論を敵にしてはいけない、との判断があった。
(2)松井大将自身が日中友好を進めてきた一人として一日でも早く、日中間の戦争を終結させるべきだと考えていた。
(3)松井大将は、いわゆる「武士道」を明確に体現した存在であり、日本の軍人の振舞い対して、強い相当な誇りをもっていた事。等。

実際に残されている記録映像や画像を見ても、日本兵と中国人たちが笑顔を交わしているものが多く、占領政策に一定の成功を収めたことが伺え、大虐殺があったとはとても思えません。実際に、日本が南京占領した後に逆に人口が増えているという統計も存在しています。

しかし、敗戦後、連合国の主導による東京裁判で松井大将は「南京における大虐殺」に対する罪に問われることとなりました。

連合国は、最も「日中の友好親善」を願い、当時の南京市内の治安維持に心を砕いた人物に対して「大虐殺」なる罪状で死に追い込んだのです。現存する記録を見る限り判決を受ける段階で、松井大将は達観していたようですが、本来は、「裁判」の名のもとで、松井大将を裁いた立場にいた方こそ、逆に裁かれるべきでしょう。

しかし、後世に生きる私たちは、真実の歴史へと修正を行うことができます。そして、いったんは失われた日本の誇りを取り戻すことができます。

また、今年も夏がやってきます。日本人にとって、先の大戦を振り返るよい時期です。ぜひ、国家のために生命を捧げた先人たちの「武士道」精神を誇りに思い、彼ら、そして日本という国家そのものに対しての敬意を深めたいものです。
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