1972年10月13日 午後3時30分頃、ウルグアイ空軍機がアンデス山頂付近に墜落した。
同機に乗り合わせていたのは、試合のためアルゼンチンからチリへ向かうアマチュアのラグビーチーム“オールド・クリスチャンズ”の他に、チリの親戚のもとへ向かう乗客、そして二人の空軍パイロットの総勢45名だった。
操縦していた二人の空軍パイロットはどちらもベテランだったが、気流の大きなエアーポケットのせいで急激に揚力を失い墜落してしまったのだ。飛行機が胴体着陸すると同時に、機体の後部から二人の若者が投げ出され、雪の斜面を滑り落ちていった。乗客の多くが墜落時の衝撃で死に、飛行機は両翼と尾翼を失い、墜落現場は航路を大きくはずれていた。
こうして生存者たちは、平均1万3000フィート級の山岳地帯に閉じ込められてしまった。
この高度では植物は成長せず、視界に入ってくるのは、15mの深さに降り積もった雪の上に頭を出している岩だけだった。
ラグビーチーム“オールド・クリスチャンズ”は、5人の平修士が経営管理するカトリックの学校、ステラ・マリス・カレッジの同窓チームで、メンバーは規律を重んじる熱心なカトリック信者であった。
チームのキャプテンであるマルセロ・ペレスは、足の骨折などで機体に閉じ込められた負傷者を救出するために救助チームを作った。医学生のロベルト・カネッサとグスタボ・セルビーノは、負傷者に応急処置を施した。
乗員乗客のうち、成人のほとんどが死んでいた。副パイロットはまだ生きていたが、計器板に身体を挟まれて身動きできず、呻き声をあげ、瀕死の状態だった。苦しみぬいた副パイロットは、自殺するつもりで自分の銃をとってくれるよう青年たちに頼んだが、青年たちは聞き入れなかった。
カトリック信者である彼らにとって自殺は罪であり、その手助けはできないと考えたからだ。副パイロットは苦しげに呻き続け、間もなく息を引き取った。
総勢45名のうち、この時点で激突死をまぬがれたのは32名だった。
しかし、日が経つに従って次々と死亡者が出た。
深い雪の中で食料も医薬品もなく、生き残った者も危機的状況だった。
重傷者には何もしてやれず、1人、また1人と死ぬたびに死体を機体の外に運び出し、雪の中に埋葬するだけだった。
彼らは胴体だけになった飛行機の残骸の中で身を寄せ合い、貴重なチョコレートを分け合い、雪を食べて水分を補給しながら救助を待ったが、救助の飛行機が探しにきたとしても、白く塗られた機体が雪の中で発見されることは期待できなかった。
■ 墜落から4日目
4人の青年が、2マイル(約3km)ほど離れたところにバラバラになって落ちている機体の後部まで行ってみたところ、死体が2体と食料が少し見つかった。
■ 墜落から9日目
生存者たちは食料不足から極度に衰弱しており、死の一歩手前の状態だった。
そこで、死んだ仲間の肉を食べるという案が出された。
医学生のカネッサは、「生き延びるためには、タンパク質が必要だ」と主張し、「今ここで手に入れられる唯一のタンパク源は、外に埋葬した死者の肉だけだ」と言った。さらに、「死体は雪のおかげで冷凍されている。早く決断しなければ、皆もっと衰弱して、死体から肉を切り出す力さえなくなってしまうだろう」と説明した。
それを聞いた他の者は、最初は強く拒否したが、カネッサは倫理的側面から議論を展開し、「生存者は、どんなことをしても生き延びなければならない義務がある」と主張した。「死体を人間だと思わず、ただの肉だと思うのだ」と。
彼らは全員でカネッサの案を真剣に議論した。
彼らが消息を絶ってから、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの各国は飛行機で捜索活動をしていたが、何の手がかりもつかめないまま墜落から2週間後に捜索活動は打ち切られた。
アンデスの山中で救助を待つ彼らは、ラジオで自分たちの捜索状況を聞いていた。
捜索が打ち切られたことを知った彼らは、絶望で目の前が真っ暗になったという。
捜索隊は来ない。頼れるものはもう自分たち以外にないのだ。
そして、彼らは決断した。
■ 墜落から2週間後
青年たちは死体の肉を切り出し、機体の残骸の上に並べて死者の魂の救済を祈った。
カネッサが先頭に立って、神に祈った後、肉片を口に入れて飲み込んだ。他の青年たちも後に続いた。しかし、全員がそうしたわけではなかった。人肉を口にするのを拒否した者は何人もいた。
宗教的タブー観から人肉を食べることを拒否している者たちの衰弱は激しく、仲間たちは何とか食べさせようと説得した。「キリストの肉と血をいただくと思えばいい。これは神が僕らに与えて下さった食料で、神は僕らに生きよと思し召していらっしゃるんだ」
しかし、いかに説得しても彼らは人肉を口にしようとはせず、衰弱して死んでいった。
初めての人肉食から数日後、彼らにとって死体から肉を切り出すことは当たり前の作業になり、切り出した肉を貯蔵する容器から盗んで食べる者も出た。アルミホイルの上に肉を置いて火であぶってから食べる者もいたが、カネッサはこのやり方に反対した。
「調理する間に栄養分がなくなってしまう。一番良いのは生で食べることだ」
この時点で生存者は27名になっていた。
■ 墜落から17日目
猛吹雪が一行を襲い、さらに8名が死んだ。
残った19名も体調が悪く、最悪な状況にあった。次に吹雪に襲われたら確実に死者は増えるだろう、もしかしたら全滅するかもしれない。ここでじっとしていても状況は悪くなる一方だ。そう考えた彼らは、自分たちがここにいることを外部に知らせる方法を検討しはじめた。そして、「もっとも体力の残っている者が、1人で山を降りて救助を求めに行くしかない」という結論に行き着いた。
しかし、それが実行に移されないうちに、さらに1人が死に、生存者は18名になった。
行方不明者の家族は、個人的にパイロットを雇って捜索を続けていた。中にはジェラルド・クロワゼというオランダの霊能者に頼る者もいたが、こういった捜索はことごとく空しい結果に終わった。
■ 墜落から1ヶ月後 11月17日
カネッサ、ビシンティン、パラードの3名が救助を求めて出発した。
3名はラグビーブーツを履き、着込めるだけの衣服を着込んで、ポケットに食料の肉片を詰めて歩き出した。
だが、2日後、自分たちが山中をさまよっているだけなのに気づいた彼らは呆然とする。彼らが絶望のうちに元いた飛行機に戻ると、また1人が死んでいた。
■ 墜落から1ヶ月と3週間後
一番体力が残っていたカネッサがリーダーとなり、生存者を組織した。彼は、「脳にはミネラルが豊富に含まれている」と説明し、雪の中から死体を掘り起こして食用に脳を取り出すよう指示した。
そんな中、また生存者の1人が死んだ。パラードは仲間たちに「皆が助かるなら、墜落時に死んだ自分の母親と妹を食べても構わない」と言った。
■ 墜落から2ヶ月後 12月12日
カネッサ、ビシンティン、パラードの3名が再び救助を求めて出発した。
3人は幾つも幾つも山を越したが、その先に見えるのは、また山だった。途中で食料の心配が出てきたため、ビシンティンが自分の食料をあとの二人に渡して、飛行機に戻った。
■ 12月16日
カネッサとパラードが、またひとつの山を昇り、反対側へと降り始めていた時、渓谷の中に牧草地と一頭の牛の姿が目に入った。「近くに人家があるに違いない」
■ 12月21日
疲労で倒れそうな二人の目の前に、川の対岸で座っている農夫の姿が見えた。二人は農夫にペンと紙を投げてくれるよう叫んだ。農夫が投げて寄こした紙にパラードは、「僕たちは山に落ちた飛行機から歩いてきた」と書いた。事情を飲み込んだチリ人の農夫は、二人に食べ物を投げ与え、その場を離れた。
3時間後、農夫は馬に乗って戻ってきて、二人を近くの村まで運んでくれた。(※左の写真:二人を助けたチリ人の農夫)
二人が村に到着したのは、山中をさまよい始めて10日目、飛行機墜落から72日目のことだった。当局は、雪の山中でこんなに長期間生存できるはずがないと半信半疑になりながら救助のヘリコプターを送った。パラードがヘリコプターの1機に乗り込み道案内をした。
こうして衰弱した生存者16名は救助され、サンティアゴの中央病院に運ばれた。
(※左下写真:救助の際、上空から撮影された墜落現場の様子/右下:救出直後の生存者たち)
病院で検査した結果、生存者は全員極限まで体重が減っており、深刻な栄養不足に陥っていることがわかった。コメントを求めてマスコミが押し寄せた時、生存者たちは、恐ろしい真実を打ち明けなければならない時がついにやってきたと覚悟した。
(彼らは医師と僧侶にはすでに自分たちが生きながらえた理由を告白していた)
生存者の奇跡の生還から5日後の12月26日、サンティアゴのある新聞社が、墜落現場のそばで雪から突き出している食べかけの人間の足を発見し、その写真を新聞に掲載した。
それにより、すべての事実が白日のもとに晒された。
生存者たちは記者会見を行い、自分たちが生き延びるために行った行為を告白した。
モンテヴィデオ大司教は、「私は、道徳的にはまったく問題ないと考えます。生存がかかっていたのですから、たとえ生理的嫌悪を抱こうとも、彼らは手に入るものは何でも食べなければならなかったのです」と語った。
しかし、そうなると今度は、人肉を食べることを拒否して死んでいった者たちに対する疑問が投げかけられた。「それでは、彼らは生存を拒否したことになり、道徳上の罪である自殺をしたことになるのか?」と。 しかし、その答えは今もって出ないままである。
1973年1月18日
ウルグアイ空軍は、アンデス山中の墜落現場に兵を派遣し、機体周辺の遺体を集めて合同埋葬した。墓の上には大きな石の十字架が建てられ、飛行機の残骸は石油をかけて焼かれた。
「アンデス山中の奇跡」と呼ばれるこの話は、『生きてこそ』というタイトルで映画にもなった有名な話である。(まだ見たことがない人には絶対オススメしたい1本である)
遭難者が人肉を食べて生き延びたという話は、実はそれほど珍しくはないのだが、そういう話につきものの後ろめたさやおどろおどろしさ、または狂気といったものは、この話からはほとんど感じられない。彼らの「生きたい」という願いと「自分たちで何とかするしかない」という極限に追い詰められた切実さがひしひしと伝わってくるのみだ。彼らの置かれた状況を想像すると、カネッサの恐ろしい決断さえ英断に思えてくる。本来ならとても恐ろしいセリフの数々も、なぜか心に響いてくるのだ。
人肉食に至った遭難でこう思えるケースはとても珍しいと思う。
彼らの奇跡の生還は、人肉を食べるという行為なしには実現しなかったものである。そのため当初は色々と囁かれて、さぞかし辛い思いもしたことだろう。しかし16名の生存者は、十分に話し合い、この過去を一生背負って生きていこうと覚悟を決めて、その行為を選択したのだ。後悔はなかった。
死者の肉をもらって命を繋いだ彼らは、死者の分まで精一杯生きなければならないと心に刻みつけ、現在も日々を大切に生きている。
2005年2月
アメリカ人の登山家によって、この時の生存者の所有物がアンデス山中で発見された。
財布、カメラのフィルム、ジャケット等の品々が、32年ぶりに持ち主の元へ帰された。
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