逢う=セックスする
百人一首の中に、こういう和歌があります──。
逢ふことのたえてしなくはなかなかに
人をも身をも恨みざらまし
ざっと見ると、「あなたとずっと逢えないから、あなたも恨むし自分のことも恨んでしまう」というような和歌だと思うかも知れません。
「女だからグジグジ言ってんのかなァ」などと。でもこの作者は男です。
「そうか、心のモヤモヤを和歌にするんだから、男でもこんなにメソメソしてみせるんだ」とお思いかもしれませんが、この和歌は「君に逢えなくて悲しい」という和歌ではありません。
平安時代に「逢う」といったら、これはもうストレートに「セックスをする」です。
なにしろこの時代の女は、下ろした御簾(みす)の向こうにいます。
男がやって来ても、御簾の内側に厚い几帳を立てて、男の言うことを一方的に聞くだけで、直接話をするどころか、身動きしてそこにいる気配さえ感じさせません。
話をするのは中継ぎの女房を通してだけで、密室性の少ない空間にいるのに、「そこにいるらしいな」と思えりゃ上等なのが普通です。
だから、そういう相手と「逢う」ということになったら、「してもいいわよ」というOKが出たのと同じです。
御簾の中に男が入ったら、もう「やるだけ」です。
そうなるまでも中間行為などというものはありません。
「逢う」ということはそういうことで、「それがなかったら」ということを読んでいるのがこの歌です。
つまり、「セックスということがなかったら、俺は他人も恨まないし、自分にもイライラしないだろうさ」というのが、この歌なのです。
真面目な男子中学生の心の叫びみたいなものですが、この歌の作者は中納言という身分の高い男です。
まるでねちっこい演歌の歌詞のようなこの和歌が言っていることは、「ああ、やりてエ!」なのです。
孤独な中年男性に贈る歌
まァ、今の日本の男は草食系で、夫婦でもあっさりとセックスレスになったりはしますが、そういう《逢ふこと》がめんどくさくなってしまった中高年男が地方へ単身赴任とします。
当然、夜は「一人寝」です。
「別にしたくはないんだ」と思って、酒で時間を紛らわせて寝てしまうような中年男性に贈るのは『万葉集』にもあって、いつの間にか「柿本人麿作」ということになってしまったこの歌です──。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
なかなかし夜をひとりかも寝む
これは、なんの内容もないことで有名な和歌です。
「柿本人麿作」ということで、この歌からは「中年男のわびしさ」が漂って来るように思いますが、本当のところは「誰の作かは不明」です。
だからこの歌は「男を待っている女の心境を詠んだもの」と解することも出来ます。
女が男の来るのを待っていて、「なかなか来ないわねエ、今夜は一人で寝るのかしら」と言っている歌だと取って取れないこともありませんが、ほんとにそうですかね?
仕事バリバリで、来る相手もいない。ふと気がついて「山鳥の尻っ尾」を思い出すような女性ビジネスマン向きの歌かもしれません。
ちょっとした心の凝りをほぐす程度の効用は、あるのかも──。