01月18

職場のイジメの被害者を助けてあげようとして、えらい目にあいました

僕は、いろんな部署のいろんな職位の人とお昼ご飯を一緒に食べるのが好きで、いろんなお昼ご飯友達がいました。
そんななかで、パワハラやイジメの被害者から相談され、なんとか助けようと僕なりにいろいろやってみたことがあります。

被害者の中には、非常に聡明で、論理的で、好感の持てる方もおり、具体的な証拠もきちんとそろっており、
まちがいなくこの人の主張が正しく、加害者は「そうとう陰湿な、性根の腐った、人間のクズのようなやつら」だ、
と思えるようなケースもありました。

そこで、さぐりをいれたり言質を取ったりするため、加害者の方をお昼ご飯に誘ってみるわけです。
たぶん、屁理屈や詭弁でごまかすか、あるいは、開き直って
「うひゃひゃひゃ。あいつ、トロくてよ、あいつをイジメると、おもしれえんだ!
なんかムカつくことがあると、難癖をつけて、あいつを怒鳴り飛ばすことにしてんだ。
ストレス解消、すっげえスカっとするぜ!」
みたいなことを言うのかな、と想像しながら話を聞いてみたわけです。

すると、
「あいつよ、理屈はいつもご立派なんだけどさ、形ばっかり仕事してて、中身が伴わないんだよね。
先日なんかさ、客がムッときているのに、空気読めずに「僕が正しい」みたいなこと延々と主張し続けるんだもん、
俺、フォローに必死だったよ。
なのによ、あいつ、打ち合わせが終わった後、自分の力でこの仕事をやりとげたみたいなこと言うんだぜ…」
というような答えが返って来たりするんです。
まったく同じ事件なのに、加害者の視点から見ると、まるで違った様相が見えてくるのです。

最初のうちは、僕は、被害者の訴えが正しく、加害者が詭弁をろうしているだけだろうと思って、
被害者が事細かに説明して、証拠もある、と主張したことについて、いろいろ根掘り葉掘り追求してみるわけですが、
話しているうちに、被害者が言わなかった、被害者に不利な事実がどんどん出てくるわけですよ。

するとまったく同じ事実・真実が、別の視点から見るとぜんぜん別の意味合いを持って見えてくるんです。
真実は一つしかありませんが、その意味は複数あるんです。

それどころか、むしろ加害者は陽気で素直でいいやつで、
実力もあり、理屈よりも実利を優先するリアリストで、
被害者よりも加害者の方が好感の持てる人物のように感じられてきたりすることもありました。

こういうケースを何度か経験して思ったのは、
被害者にしろ、加害者にしろ、その主張がどんなに論理的に正しく、証拠もしっかりそろっていて、
完璧に正しいように見えても、彼らは、
自分に都合のよい証拠と理屈だけを並べる傾向がある、ということです。

特に「いじめる人たちは純度100%の悪の加害者で、自分は純度100%の正義の被害者だ。」
みたいな論調で「辻褄のあった物語」を語る被害者は、
例外なく、あとから被害者に都合の悪い事実がわんさか出てきました。
特に自分が正義だと臆面もなく言う人は、たいてい要注意でした。

少なくとも僕の経験上は、正義のはずの被害者のいうことを鵜呑みにして、
被害者の主張をそのまま責任者にぶつけて交渉すると、
どんどんボロがでてきて、擁護している僕の立場がヤバくなりました。

実際に直面して見りゃわかるけど、こういうのは、裁判よりよっぽど判定が難しいんじゃないかとすら思えてくる。
裁判の場合、明文化された法律の条文があるし、「推定無罪」とか近代法の基本原則が確立されているので、
はるかに判定しやすいんじゃないのか?
ところが、法律に違反しているかどうかを判定するのではなく、「道徳的な善悪」や「正義はどちらにあるのか?」
「道徳的にだれが悪かったのか?」という話になると、明文化されておらず、
しかも、統一もされていない価値観のぶつかり合いが生じる。

とくに、僕が今までに接したケースだと
例外なく、被害者は経営者視点がヌルかった。
「会社の経営がどうなろうか知ったことか!経営は経営者の責任だ!そんなものよりオレの正義が大切だ。」という人と、
「会社の経営をよくするためにみんなで頑張ろう」という人では、そりゃ、世界の見え方が違いますよ。

つまり、判定するには、自己申告者の感情的なバイアスが大きく、情報が不完全で、しかも判定基準が不統一、
かつ不明確、という壁にぶつかりまくって、結局客観的な判定ができない場合もあるんだ。
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